携帯を持たずに、考えられた一日。

今日は一日、携帯を持たずに過ごした。

新橋から青山、表参道、恵比寿とあてもなく自転車で移動し、最終的にはふと思いつきで新しい部屋探しをした。

道中、色々なものを見つけ、おもしろそうだと思うととそちらに向かい、興味のままに街をすり抜けていった。はじめは写真を撮ったりつぶやいたりしたがる右手を諫める必要があったが、最後には自分のためだけの時間を楽しむことができた。

携帯電話が無い時間は、「携帯を見ることを忘れるほど夢中になっている時間」とは、また違うものだった。

ここしばらくは細かく目の前の時間を切り取り、書き残し、共有することが癖のようになっていたように思う。一日を思い返して話すときには、細かくつけた目印を順々にたどるように語るようになっていた。すこし前の自分の言ったことをすべて大事にしたかったのだと思う。

細かな記録をせずに、外から突然干渉されないような、そんな一日を過ごした後に振り返ると、「細かく目の前の時間を切り取ったときの自分」とは明らかに違う振り返り方をしていることに気づく。

丁寧に、細かく、目の前にあったすべての時間を大事にする自分は、ここにはいない。

考えてみれば、一日を振り返るときに、すべての出来事を平等に一つ一つ話してしまっては楽しくはなりそうにない。それは聞く方も楽しくないし、話す方も大して楽しくはない。過去の一つ一つの行動から強制されているようで、息苦しささえ感じる。

ずいぶん前から、「細かく出来事をつぶやけるようになって、日記が書けなくなった」という声を聞くようになった。それは、「手軽につぶやけるようになったから」だと多くの人が説明しているようだが、実はそうではなくて、「おもしろく一日を語れなくなったから」のように思える。

細かく目の前の物事を書き留めない日々を過ごしてみると、「覚えておきたい」とそのとき思ったことの多くは忘れているけれど、「出会った出来事の描写ではないもの」に気づき、一日を編み直すことができる。

以前、いざ文章を書こうとすると、過去の自分が気になって手が動かなくなっていたことが嘘であるかのように、今は、楽しく、自由に、あのときの自分を加工する事ができる。

細かく切り取る自分と、それができない自分の両方を想像することができることも面白い。細かく切り取る自分には、それができない自分が感じるであろうことを想像もできないと思う。

持たない自分は持っている自分を想像できて、持っている自分が持たない自分を想像できないというのは、不思議なことだと思う。「失ってみるまで分からない」というのはこういうことの延長なのかもしれない。

目の前にある出来事を、短い文章で、すぐに、誰かに向かって、届けるとき、その言葉は短い枠に収まるように終わらせなければいけない。そのあとに何かとつながって、より面白くなったり、大きくなるかもしれない可能性を断ち切って、小さくまとめて終わらせてしまう必要がある。

一度終わらせてしまうとそれは一つの固まりになってしまって、紐解いて編み直すことは難しくなる。終わらせた形のまま並び換えるくらいしかできなくなってしまう。過去の自分が、みんなに何を言ったのかが気になってしまうのだろう。

過去の何も知らない自分に、色々なことを見てきた自分が縛られてしまっているとは、なんて面白味のない過ごし方をしてたのだろう。

些細な目の前の出来事を一生懸命飾り付けようとしていた自分を振り返っても、楽しいわけがない。寂しくて、みすぼらしく感じてしまうだけだ。

便利だと思っていたものは、自分自身をも便利なものにしていたのかもしれない。便利なものは面白くない。

こうやって、自由に書き綴っていけばいくほど、今まででは同じような形で繋ぎ留められていた一日が、そこにいた自分には思いもよらないものに作り直されていく。そこにいた自分を弄ぶこともできる。

手軽に、みんなに、届けることができる便利なモノが、いつの間にか、自分自身を、手軽に、みんなに、届けることができる程度のモノにしていた。

一日を自由に振り返ることができる自分が面白いかどうか分からない。こうやって一日に感じたことを書き綴って終わらせようとしているいまの自分に気づくと、たとえば一月ほど何も書き留めない方が、面白く自分を編み直すことができるのかもしれないと思ったりもする。

それでも、目の前の出来事や、目の前にあった出来事のみに縛られて考えなければいけないのとは、はるかに自由さが違う。今は、一日を一日という枠だけで捉えてもいない。今日以外のものも自然に貼りついて編み上げられていく。

目の前にあるものを目の前にあるようにだけ捉えてしまうのは、残酷すぎて面白くない。目の前にあるものを目の前にないものになるまで編み上げていく方が面白い。

思えば、人と話すとき、人と過ごすときも、目の前のことに囚われがちになっていたような気もする。

もっと自由でいいのに。もっと話を拡げてもいいのに。嘘になってもいいのに。

もうすぐ死んでしまう人であるかのように、今の自分をすぐに切り取ろうとしなくていい。もうすぐ死んでしまうかもしれないけれど、格好悪いのは死んでしまうことがわかった時だけでいい。

今日は、最近ずっと気になっていた、「日々面白くなくなっていく自分」から、少し抜け出せるような、そんな予感を抱いた一日だったように思う。
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高田純次の「人生の言い訳」で肩の力が抜けた

そういえば、塾のアルバイトをしていた時の、
同僚の尊敬する人は高田純次だったなぁ、
とか思いながら、初めて書籍を手に取った。

帯に書いていたが、初の「語りおろし」らしい。
これも本当かは分からないけれど。

たまたま、今日本屋に行って、
本当は適当日記を買おうと思ってたんだけど、
本屋には適当手帳とこの本が置いてあって、
タイトルに惹かれてしまい、手にとってしまった。


人生の言い訳人生の言い訳
(2010/02/26)
高田 純次

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そんで、パラパラめくって、始めのほうで、
「俺は男らしく、絶対に言い訳しない」
こんなことを言う人にかぎって、ベッドの中では、
「あれっ、おかしいな? きょうは飲みすぎたかな?」
と、こんな言い訳をしているに違いない。
という言葉を見て、
なんだか色々な肩の荷が下りた気がして、
同時に購入することを決めた。

その時思っていたたのは、
「なんて論理的なんだ」
「すごい楽になったなぁ」
「最近、自分に固執してたなぁ」
みたいなことを考えていた。

その時は、「なぜ論理的と思ったか」って話題で
久々にブログでも書きたいなぁ、なんて思っていたんだけど、
帰って読んでみたら、そんなこともうどうでも良くなった。

読後は、
「目の前のことを正直に見るんだなぁ」
「しかも、自分の尺度にこだわらないなぁ」
「スムーズに思考を進める人だなぁ」
と、高田純次の姿勢にただただ感心した。

正直に考えた結果の負の感情も含めて受け入れる。
他人に対する言い訳と自分に対する言い訳。言い訳にはこの2つがある。
(中略)
くらべると、前者が苦し紛れとはいえ、一応きっぱりとした言い訳の体を成しているのに対し、
後者はどこか決まりが悪い。
ただ、全てのことを「適当」に笑い飛ばしているわけではなくて、
他にも恥ずかしさとかを感じていることを正直に告白する。

しかし、その上で、
他人にも自分にもうまく言い訳しないと、「しこりが残る」とか、「あとを引く」、「後悔する」といったことになってしまうもんね。
(中略)
ところが、自分に対してそんな言い訳は通用しない。だって、すぐにウソだってバレちゃうもんね。
自分に対する言い訳はそこがむずかしい。なかなか自分にはウソがつけないわけだ。
しかし、高田純次は提言したい。自分にうまく言い訳しましょう、と。
1章の終わりに、そんなことを言い放ち、
2章からさまざまな言い訳について話を続ける。

「きっと幸せにするから」
という言葉から始まり、
「終電に乗り遅れちゃったね」
といった下世話なものも扱いつつ、
「まっ、いいか」
の言葉で締める。

2章を通して、
人間の適当さ、自分の弱さ、興味のなさに言及しながら、
強引ではない形で、説得力のある語りを綴っていく。

「高田純次も言ってるけど、確かに自分もそうだよなぁ」
そんな気持ちにさせられながら、言い訳について考えてしまう。

3章は「言い訳の心理学」という名前がついていて、
詐欺師の例から始まり、
言い訳をした時に生まれてしまう感情や、
相手によってつい自分に言い訳したくなる場面について語る。

そこで、
悲しい時には、なるべくそれを人に見せたくないという心理がはたらくからだと思うけど、嬉しいときはどうだろう?

もちろん嬉しいときは、悲しいときと逆で、幸せな気持ちを人に伝えたいという気持ちはあるだろう。
しかし、その反面、あんまり嬉しそうにしているとツキが落ちるというか、
嬉しさが半減するようなすることってないかな?
こんな風に、高田純次は僕の感情の言い訳さえしてくれる。
つい、言い訳に言い訳をしたくなるようなものを、気持よく解いてくれる。

そんな感情に対処するように、
4章ではバランスの取り方を語り始める。

そこでは、
飛び抜けなければいけない(と言われている)お笑いの世界で中で
ヒット芸や定番ネタも持たない彼が(結果的に)バランスを取ってきたこと、
会社員時代には自分の感情をうまくバランスさせて仕事をこなしていたこと、
劇団デビューの際の「魔が差した」こと、などを話していく。

4章の最後に、人生の転機について、横尾忠則の作品を上げながら解説する。
人生で、T字路みたいに右か左か、はっきりした選択を迫られる場面はそう多くはない。
むしろ、Y字路的な微妙な選択をすることのほうが圧倒的に多いはずだ。
(中略)
T字路の右左を間違えたら、方向が全く違うわけだから、きた道を引き返すという選択肢しかない。
ところがY字路の場合は、途中からでもどこかで適当に曲がっていけば
もう一方の未知にでられそうな気がして、思わずハンドルを切ってしまう。

すると、たいていはそれがまた間違えていて、行き止まりだったり、
まったく違うとんでもないところにでてしまったりする。

このがっかり感。そんなきたいやら、もどかしさやら曖昧さやらが詰まっているのがY字路で、とても面白いと思った。
なんて、ぐっと来る文章を書かれてしまう。
さらに、それを「面白い」と片付けるとは、なんと格好良いのか。

実は、この直後には、個人的に非常に気に入っている部分があって、
彼が絵を欲しくなって横尾さんに頼み込みに言った時の話で、
そのとき横尾さんの手を見たら、
指が白くて、僕の倍ぐらいの長さがあるのにビックリして、
さすが世界の横尾さんは指も世界的な長さ、なんて印象を持っていた。
ところが、二度目にお会いしたときは、今度は普通の指だった。
あれは幻だったんだろうか。今でも不思議だ。
と書いている。

この記述に、彼の正直さというか素直さが現れているなぁ、と感じたのだ。

記憶に、無理やり整合性を持たせようとせず、正直に捉え、正直に残す。
そんなスタンスがここに出てるんじゃないか、と思ってしまった。

そんな彼が、最後の5章でまた期待を超えてくる。

今までスムーズに文章を綴っていたのに、
いきなり、
「適当」が分からない
という見出しで話を始めてくるのだ。

そして、
いつからか僕は、「適当男」なんて言われているけれど、
これでもけっこう人並み以上に悩むことがある。
「適当って何だろう?」と。
むずかしいんだ、これが。
(中略)
その世間のイメージからすれば、高田純次は適当でなくちゃいけないんだけど、
当の本人が「適当」ってことがよくわかっていないのだから、タチが悪い。
と続ける。

「適当論」という本が売れるようになってから、
ひとから「適当」を求められるようになったと言い、
ところが、「適当男」というのは、世間の僕に対するイメージではあるんだろうけど、
僕自身が「適当男」を演じているわけでもないし、
「待ってました! 高田純次のテキトー節」みたいなお決まりの芸があるわけでもない。

にもかかわらず、いったん「適当男」という色が付いてしまうと、
みんながそういう目で僕を見るから、そこにジレンマが生じる。
という難しさを吐露する。

そんなわけで、「適当男」と言われだしてから僕は、
適当ということに振り回されてきたように思う。
(中略)
ここまではさっき言ったとおりなんだけど、実はもっと大きなジレンマがある。

それは、「高田さんのテキトーな感じがいい」と第三者に言われて、
「そうか!」とその気になった僕が、
「適当」を大いに意識してそれを演じてみせるとか、
芸にしちゃおうとかなったときに、
それはもう「適当」じゃなくなっちゃうってことだ。
(中略)
自分で言っててわけがわからなくなってきちゃったけど、
要するに、さっき言ったように、
適当ということを適当に考えてたら適当なことはできないけれど、
かといってまじめに考えてしまっても、その瞬間に適当じゃなくるってこと。

そのへんがじつにジレンマなわけ。
と全く「適当」ではない論を展開する。

このような話に加えて、
5章では役者論など、真剣に意見を続けていく。

最後はやっぱり適当な茶化しで終わるのだが、
本書では一貫して、正直で、誠実な人であることが感じ取れた。

彼は、
自分の弱いところも認めるし、
状況の変化をありのまま捉えようとするし、
その自分の感覚も絶対視しない中で、
誠実に状況を分析し、考えを進めていく。


そんな姿が、ぼくの肩の荷を下ろし、
強情な言い訳で大きく見せようとしていた自分を諦めさせ、
同時に、広い平野にぽつんと立つ小さな自分を感じさせてくれた。


「馬鹿だったなぁ。僕は弱くてだめだな。」

そんな自分への言い訳が、
引っかかること無く自分の中に落ちていった。

人生の言い訳人生の言い訳
(2010/02/26)
高田 純次

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マニュアルを作るということ

マニュアルを作る経験が今の仕事に限らず何度かあり、
マニュアルとは何か、マニュアルを作るとは何か、
ということを考えることが最近多かったので一度考えを整理しようかと思う。


結論から言うと、マニュアルとは
・採用するに足る人に対して
・目的と文脈を示すことで
・組織に仕組みを貯めていく
ための文書なのではないか、と今は考えている。


「自分の仕事を組織に貯めて、誰でもその仕事をできるように」
という組織的な目的のためにマニュアルを作る。

(余談だが、その一方で、個人としては
「自分の飽きたor飽きそうな仕事を次の人にもできるように(仕事orやり方を)再加工する」
という目的でマニュアルを作っていた)


その際に一番困ったのは、
「誰に向かってマニュアルを作るか」
ということだった。

「誰にでもできるように」と言うと簡単に聞こえるが、それが一番難しい。

流石に小学生に教えるには、膨大な説明が必要だし、
日本語読めない人のために、マニュアル作るなんて(時間を考えると)できない。

そこで結構考えたのだが、最終的には
「この仕事をやってほしい人」を想定して作ることにした。

そういう想定をすることで過度に幼稚にならないし、
かといって読み手に親切でないマニュアルを作ることも避けられた。


また、実際に作成するときは
目的と文脈を示すことが大事なのだと気づいた。

マニュアルと聞くと手段のように思えるが、
技術の変化と共に変化するものであれば、
それに応じてマニュアルの内容も可変になるべきである。

であれば、可変にするために、
各項目の目的と、その手段に落ち着いた文脈(理由など)があれば文脈を明示すべきだと思う。

そのためには目次は必須であり、
その手段を選んだ理由があれば盛り込むべきであろう。


そのようなことを考えてマニュアルを作った後、
ふと「マニュアルは採用要件に使えるものでなくてはならないのではないか」
と感じた。

組織では、誰がやってもある程度均一な質の出力を求められるものだが、
一方で、誰をも採用しているわけではない。

採用には選別がなされており、
その選別にマニュアルというのは適していると思うのである。


なぜなら「ある仕事をする際に参考にすればその組織では誰でもできるはず」
という想定でマニュアルは作られているから、
その想定が実現されていると、ある程度立証されたマニュアルを使う場合、
それを読んでできないのであれば、その組織の人間たりえないということである。

採用においていわゆる「多様性」を重視するなどして、
(ここでの「多様性」への是非や厳密な定義はしない)
他の要件を求めるのであれば別であるが、
ある程度同様の仕事をするのであれば、
マニュアルは有効な判別テストになる気がするのである。


そのあたりまで考えた結果(もう手遅れなものももちろんあるがw)、
・採用するに足る人に対して
・目的と文脈を示すことで
・組織に仕組みを貯めいく
ための文書がマニュアルなのではないか、という考えにたどり着いた。


これからもどこかでマニュアル作りを求められることはあるだろうし、
この文書もマニュアル作りのマニュアルとして、
これからマニュアル作りが必要な時に効率化するヒントとしたいと思う。


将来の自分が今の自分を採用してくれるかは怪しい所であるが。
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オーダーメイド?ヒアリング?

顧客接点があり、ある程度オーダーメイドが可能な仕事において、
「聞くこと」に過剰な比重が置かれているような気がする。

だからこそなのか、最近は「発信」について考えることが多い。



もちろん、聞くことは大事ではあるのだけれど、
相手の言うことばかりを聞いていても、それはただの御用聞きである。

おそらく同じオーダーメイドの価値提供であっても、
「コンサルティング営業」にもなりうるし、
「御用聞き」という形にもなりうる。

そこにはどういう違いがあるのだろうか。

私は、それが顧客接点人材と言うよりも、
事業の進め方に違いの要因の多くがあるのではないかと考える。



話す割合と聞く割合は2:8が良いだとか3:7が良いとか言われる。

ここで正確な割合について詰めていく気はないが、
「傾聴」に重点が置かれている(とよく聞く)現在では、
むしろ一定量の発信・伝達は必要ということに注目すべきではないだろうか。


全く相手に適切にインプットをしない状態で、
相手から好ましい情報を得られるとは思えない。

こちら側が何らかのプロフェッショナルという立場(ほとんどがそうだろう)の場合、
こちらの分野の情報を相手に伝えないままでは、相手からは印象論しか出てこない。

教師が、教材も授業も提供しないまま、
生徒に「何か分からないところとか不満はある?」と聞くようなものだ。

おそらくそういう手段では、
ただのわがままや実現可能性を考慮に入れない願望ばかりが出てくることになるだろう。
(それが必要な段階もあるのだろうが)


つまり、顧客から何かを聞くには、
顧客が正常に判断を下せる程度の材料をまず与えないといけない。

それは質問の仕方であったり、営業資料の説明であったり、
様々な形を取ることができる。

そうすることで、
「ブラジル代表は強いんだから一回もボールを取られてはいけない」
のようなとんでもない意見や要望を避けることができる。


ただ、発信を顧客接点人材が担うことは可能ではあるが、
全ての顧客接点人材がそれを実現すると考えるのは、
その人材採用や育成に多大なコストを掛けられる組織以外では現実的ではないだろう。


となると、事業の仕組み自体に発信機能を取り入れないといけない。

特に、情勢がよく変わる分野であれば、定期的に発信をする必要があり、
それを複数の顧客を持つ一人の顧客接点人材が担うのは非常に難しい。

だから、事業の一部として発信機能を取り入れる。

たとえば、
コンサルティング業者でのセミナー、
ウェブマーケティング業者のブログ、
加工食品業界のレシピ公開、
プロスポーツ協会によるレクチャー、
といったものはここでいう発信と言えるのではないだろうか。

それにより、顧客のリテラシーが上がり、
企業の限界のようなものをある程度理解してもらった上で、
建設的な意見を聞くことが可能になる。


また、ある程度強引なやり方ではあるが、
事業の説明ではなくブランドイメージを印象づける、
という方法を取るという形もある。

大企業の信頼という肩書きを使うことで不当な要求を防いだり、
ラグジュアリーブランドなどは機能の説明ではなく、ブランドの表現でもって
付加価値に関する詳細な説明責任を不要な状態にすることもできる。

そのような発信が前提になって好ましい形での傾聴というものが実現される。
発信がない状態で、同様の製品の他社と競争してしまったら
「原価率低すぎ」などという意見はたくさん生まれてしまうだろう。
それは声だが聞くに値しない。


適切な発信機能がうまく取り入れられている事業においては、
いち顧客接点人材からすると「聞くだけでいい」という状態でうまくいくこともあるかもしれない。


事業を作る、つまり顧客に付加価値を提供するにあたって
「聞くこと」は必要ではあるが、
「どのように聞くか」ということを想定し、
「聞くための仕組み」をデザインしなければ、
本当にただの御用聞きになってしまう。


うまく事業がデザインされているのであれば、
顧客接点人材に「聞くことのみ」に重点を置いてもらうようにすればいいが、
自分の事業で本当にそれでいいのか、
それでいいなら他のところでどう発信機能をもたせるのか、
そういうことを考えなければいけないと思う。


自分の製品やサービスの価値について相手に伝わってないまま要望を聞いても、
自分たちが作っている製品やサービスの価値が逓減される。

こちらがプロフェッショナルな価値提供ができるのであれば、
自分の分野に関して、全くの素人に、
その分野のやり方を指導させてもうまくは行かないはずなのだ。

自分の分野に関しては相手に適切に情報を伝え、
そして、相手の分野に合わせた価値が何かを見つける。
そういう形でなければ「オーダーメイド」という形は維持できないのではないか。


確かに、顧客が見え、声を聞くことは、
価値提供や変化をする際の重要なヒントになるだろう。

しかし、こちらが黙っているだけでは、
相手はなにも話したくはないし、何を話せばいいのか分からないものだ。


そんな「傾聴」などだれも幸せにしないのではないだろうか。

自分が自己開示せずに、相手が自己開示なんてしてくれるものか。
リスクを取らずにリスクを取ってなどくれるものか。
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【出遅れ感想】an・an 2011年 9/7号


an・an (アン・アン) 2011年 9/7号 [雑誌]an・an (アン・アン) 2011年 9/7号 [雑誌]
(2011/08/31)
不明

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もう最新号が出ている雑誌について書くのもどうかとは思うけれど、
しばらく話題になってたっぽいan・an「2011年 9/7号-感じあう、SEX-」についてちょっと書いてみる。


僕はこの本についてどう語られていたのか知らないし、
調べるつもりもないけれど、

僕の「ananを読んだ」という旨のコメントに対して、

男性A:(1)実践するまでが、ananとはよく言ったものだよね。RT anan読み切った!DVDも見てみよう
(2)君もエロ本とか買うんだね///RT 話題になってたのでanan買ってみた。DVDついてんじゃん!
男性B:私も実践してみます。(以下略)
女性A: 今月のananつまんねー!くだらねー!っていう、性過激派の人がTLにちらほら見受けられたんだけど、実際のところどーなの?ちなみに私は、表紙の「S」の文字見ただけでもう赤面ガクブルでした(/////)
女性B:かんそう! (僕のanan読んだというコメントに対して)
女性C:私も今月のanan興味あるwww

といった反応が来た。


ここに僕は媒体の力を見た。

ananは男性誌と女性誌の間にある、珍しい媒体なのだと思う。

いわゆる男性誌(「エロ本」と言ってもいい)は女性が手を出しにくいし、
手を出したらその場や行為がネタのように扱われがちになる。

逆に、他の女性誌は男性から手の届かない存在であり、
それに手を出すと、それ相応の意味が見出されてしまう。

しかし、ananは、(これも女性誌であるのだが、)
他の余計な意味を含ませること無く、
多数の人にSEXについて考えさせたり、
意見交換をさせる場をもたらす媒体となっているのではないだろうか。


性差に限らず、様々なクラスタの人同士が、
ananを舞台にしてSEXについての意見交換ができるようになっている。


上のコメントにあるような、
「今月のananつまんねー!くだらねー!っていう、性過激派の人」も
他の女性のSEXに興味がある人も、
ただ単に性的な会話が好きな人も、
一緒になってあの話題をオープンな場で行っている、という動きが起きた。

これこそが媒体の力だと思ったのだ。


僕はananという雑誌以外にこういう動きを起こせるような媒体が思いつかない。


そこから僕が気づいたのは、
「ananがあれば相手と、真面目にSEXの話をしやすい」ということ。

だから僕はananを買うことを決めた。
立ち読みでは、内容は持ち帰られるけれど、ananは持ち帰ることができない。

それでは意味が無いのだ。
(というか、同様の内容を書いている本はすでに僕の家にもあるはずだ(笑))


その事に気づいて、僕は
「実践するまでが、ananとはよく言ったものだよね。」と言うコメントに対して、
「ぼくは『実践するときに』という結論です」と返した。


人とSEXの話をするために、
僕はこのananを部屋の中の見えるところに置いている。

SEXについて話す機会は今までもたくさんあったが、
"真面目にSEXについて話す機会"は今までほとんどなかったように思う。


家で飲みでもする時、そういう機会も持ってみたい。
茶化すこと無く、隠すこと無く。


それもきっと出来ると思う。
(でもこのblogを見た人は嫌がるかもしれないなw)


こういう媒体の力を目の当たりにすると、
安易に
「ネットは伸びてる」「4マスはもうダメだ」
なんて絶対言えないなぁ。


締まりが悪いが時間がないのでこのへんで。
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プロフィール

Author:mrichiro
学生を応援する活動を京都でやってたり。
大阪在住なので、毎週、三都物語。
オフィシャル・アンオフィシャルに関わらず、ずっと教育に関わりながら生きてきた気がします。

コメントは大歓迎です。

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