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経験者の中に入って一生懸命ついていこうとすると謙虚になれた

GW中に突然バスケに誘われ、参加した。

言ってみると、バッシュ持っている参加者ばかりで、
自分だけがランニングシューズと「動きやすい私服」で参加。

身体も技術も明らかに劣る中で必至に走りまくった。
終わるころには「やっぱりバスケ部でちゃんとやってきた人たちには叶わない」と感じた。

そして次の日、筋肉痛に苦しみながら、
「自分がやっていることに関しては、初心者がすぐには通用しないほど積み上げられているかなぁ」と考えるに至った。
それは即ち、自分が取り組んでいる分野で価値を積み上げ続けられているか、という問いになる。

気を抜くと自分の事情を優先して甘えてしまうことは分かっている。

特にこれからは身の回りのことが慌ただしくなることは明らかなので、
意識的に自分のキャリアを冷静に見つめなおす時間を取って、
内向きになりそうなとき、前を向けるように仕組みを作っておこうと思う。
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試用期間が終わりました。

6月に転職をして、11月で試用期間が終わり、
12月から、正式に社員として新会社で働いている。

なんとなく色々なタイミングが良いので、
前の会社と今の会社のこと、そしてこれからのことについて少し触れてみたい。


前の会社
前回はいわゆるネットベンチャーでSEOをやっていて、
会社自体はベンダーではないが、ベンダーの事業部に所属していたような形になる。

当時、SEOに関しては、
社外の代理店でレクチャーしたり、外部向けメルマガを編集する程度には専門性を持てたし、
営業のようなことも経験し、提携の提案や、来期の戦略構想を練る部分にも少し関わり、
社内でSEOの効果検証ができるような仕組みを提案し、作ったりもした。

読むだけではあるけど、英語の文献には毎日触れて、
それを元に同期とほぼ毎日簡単な議論をして、
社外のすごそうな人達の存在に気づけば、「俺らも頑張らなあかんなー」と言い合って、
昼休みなどの休憩時間にはカフェで読書をするような毎日だった。

それはそれで楽しかったし、
特段大きな不満もなく、
社内の誰かと喧嘩したわけでもないけれど、
ちょうどクオーターを跨ぐぐらい、
つまりミッションを作りなおすぐらいのタイミングで外から話があり、
そちらがより魅力的に感じたので、転職することに決めた。

大学院時代の先輩には、「1年以内に独立する」と言われていたのだが、
結局、1年2ヶ月で転職することになった。


新しい会社
転職先は、外資系のマーケティング代理店(日本だと「総合広告代理店」になるのかな)で、
入社直前まではプランナーで入る予定だったらしいんだけど、
結局、Account Executive(日本では「営業」に対応するけど、Salesとはちょと違う)として入社することになった。

それまで代理店の経験はなかったので、
「総合的に代理店の仕事を見られるから」という本音の裏に実情が隠れている言葉を、
実情の部分も含めて了解する形で、受諾した。

担当する企業は、取引の歴史が深く、取引の範囲も広いため、
配属されたところは、社内では(激務だと思われている部分もあるが)、
花形部署とされているところだった。

入社2週間後に横の先輩が辞めるということで、
1週間後に、その人の送別会の打ち合わせに参加し、
その1週間後から仕事を引き継ぐというドタバタ劇から始まり、
しばらく他の先輩に付いて回っていたところ、
3ヶ月目ぐらいから先輩が多忙で間に合わなくなったため、
不相応なプロジェクトを自分一人で回すようになり、
5ヶ月目ごろには他チームからマネージャーが入ってきて、
その際のタスク分配によってなぜかチーム内で一番タスクを抱えることになり、
他にも、ソーシャルメディアやWEBが絡む話が出た場合、
他チームの仕事であろうとアサインされるような感じ。

マーケティング全般は扱わないにしても、広告だけに留まらず、
少なくともプロモーションもしくはコミュニケーションのレベルの範囲で
仕事をする必要があり、時には年間のマーケティングプランのディスカッションにも参加する。

「広告枠を買って、そこにクリエイティブなものを載せる」だけでなく、
ダイレクトメール、eメールの製作や、ソーシャルメディアの監修、
それに留まらないイベントの集客なども手がけている。


自分の役割
社内では、コピーライター、デザイナー、WEB制作、メディアプランナー、プロモーションプランナー、
コンサルタント、総務、海外(ほとんど本社)のアカウントなど、それぞれの部署との関係を保ち、
各メディア(と代理店)、印刷会社、映像制作会社、その他サービスの業者、クライアントと交渉、協働を図る。
(自分でリストアップしてちょっと引いた。多いな。)

それらの人たちとコミュニケーションを取り続ける(というか僕の場合、「取り始める」)ことに加え、
標準的なプロセスを理解していなければ、プロモーション全体は見えないし、
各分野のニュースをある程度追っていないと、客先での質問に返答することも難しい。

楽な方法ももちろんあって、
それは「関係者を客先に連れて行く」ということなんだけど、
一時的に来てもらう人には、話の流れを全てインプットすることができないから、
できる限り、Account一人でインプットして客先に行く方が良いことを学んだ。

客先の文脈を理解しつつ、どの話に誰をアサインすべきかを考え、その他の必要な情報をインプットして、
タスクとスケジュールとお金の流れを俯瞰して管理し、進めていく。

そして、間にAccountが挟まることによるタイムロスよりも、
僕を通したほうが話が適切に伝わり、仕事が効率的にな利用に関係を維持しておく。

そんな仕事をやることになった。

売上は時間あたりのフィーで成り立っていて、
そういう意味では仲介もやるコンサルタントに近い仕事といえるかもしれない。

成果に対して報酬を貰わないことに対しては、

コンサルタントの秘密―技術アドバイスの人間学コンサルタントの秘密―技術アドバイスの人間学
(1990/12)
G.M.ワインバーグ、木村 泉 他

商品詳細を見る

という本が非常に参考になって、
「最終、成果に関わる決定はクライアントがするから」
という理由が非常にしっくり来た。

この本の他の内容も、普段の仕事の進め方にかなり応用できるため、
読了後、仕事の捉え方に無理がなくなってきたように思う。


仕事の進め方
業務の範囲が全然違うため、新しく覚えることは多かったが、
前職のほうが作業が速い人やエクセル等のツールを使える人が多かったのもあり、
業務処理のスピードとしては、周りの人より数段速いことが分かった。
前職の経験が生きた部分は特にこの部分。

ただ、下請け、孫請けとの調整や、海外も含めた上層部との調整などに時間がかかるため、
プロジェクトを動かすために必要な労力は違ってくる。
クライアントも自社もグローバルで一定以上の規模のため、監査や会計処理の手続きにも時間がかかる。

スケジュール的に、年間でできる大規模キャンペーンの数は限られてしまうが、
その分、予算規模も、リーチの規模も個人では到底実現出来ないレベルのものが出来る。


これから
細かい業務的な内容は、現在進行中のものもあるし、
そもそも言えないものもあるので、なかなか触れられないけれど、
部署横断的な社内勉強会の運営に携わったり、
上が詰まっているわけではないので、昇進の可能性も開けていたりと、
名実ともに伸びる可能性を感じることができて、ワクワクできている。

一方で、知識の取得方法や、外国人との付き合い方に関しては、
社内にいるだけではなんともできないような気もしているので、
社外での訓練も考慮に入れながら活動していきたいと思う。


こちらからは以上。
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携帯を持たずに、考えられた一日。

今日は一日、携帯を持たずに過ごした。

新橋から青山、表参道、恵比寿とあてもなく自転車で移動し、最終的にはふと思いつきで新しい部屋探しをした。

道中、色々なものを見つけ、おもしろそうだと思うととそちらに向かい、興味のままに街をすり抜けていった。はじめは写真を撮ったりつぶやいたりしたがる右手を諫める必要があったが、最後には自分のためだけの時間を楽しむことができた。

携帯電話が無い時間は、「携帯を見ることを忘れるほど夢中になっている時間」とは、また違うものだった。

ここしばらくは細かく目の前の時間を切り取り、書き残し、共有することが癖のようになっていたように思う。一日を思い返して話すときには、細かくつけた目印を順々にたどるように語るようになっていた。すこし前の自分の言ったことをすべて大事にしたかったのだと思う。

細かな記録をせずに、外から突然干渉されないような、そんな一日を過ごした後に振り返ると、「細かく目の前の時間を切り取ったときの自分」とは明らかに違う振り返り方をしていることに気づく。

丁寧に、細かく、目の前にあったすべての時間を大事にする自分は、ここにはいない。

考えてみれば、一日を振り返るときに、すべての出来事を平等に一つ一つ話してしまっては楽しくはなりそうにない。それは聞く方も楽しくないし、話す方も大して楽しくはない。過去の一つ一つの行動から強制されているようで、息苦しささえ感じる。

ずいぶん前から、「細かく出来事をつぶやけるようになって、日記が書けなくなった」という声を聞くようになった。それは、「手軽につぶやけるようになったから」だと多くの人が説明しているようだが、実はそうではなくて、「おもしろく一日を語れなくなったから」のように思える。

細かく目の前の物事を書き留めない日々を過ごしてみると、「覚えておきたい」とそのとき思ったことの多くは忘れているけれど、「出会った出来事の描写ではないもの」に気づき、一日を編み直すことができる。

以前、いざ文章を書こうとすると、過去の自分が気になって手が動かなくなっていたことが嘘であるかのように、今は、楽しく、自由に、あのときの自分を加工する事ができる。

細かく切り取る自分と、それができない自分の両方を想像することができることも面白い。細かく切り取る自分には、それができない自分が感じるであろうことを想像もできないと思う。

持たない自分は持っている自分を想像できて、持っている自分が持たない自分を想像できないというのは、不思議なことだと思う。「失ってみるまで分からない」というのはこういうことの延長なのかもしれない。

目の前にある出来事を、短い文章で、すぐに、誰かに向かって、届けるとき、その言葉は短い枠に収まるように終わらせなければいけない。そのあとに何かとつながって、より面白くなったり、大きくなるかもしれない可能性を断ち切って、小さくまとめて終わらせてしまう必要がある。

一度終わらせてしまうとそれは一つの固まりになってしまって、紐解いて編み直すことは難しくなる。終わらせた形のまま並び換えるくらいしかできなくなってしまう。過去の自分が、みんなに何を言ったのかが気になってしまうのだろう。

過去の何も知らない自分に、色々なことを見てきた自分が縛られてしまっているとは、なんて面白味のない過ごし方をしてたのだろう。

些細な目の前の出来事を一生懸命飾り付けようとしていた自分を振り返っても、楽しいわけがない。寂しくて、みすぼらしく感じてしまうだけだ。

便利だと思っていたものは、自分自身をも便利なものにしていたのかもしれない。便利なものは面白くない。

こうやって、自由に書き綴っていけばいくほど、今まででは同じような形で繋ぎ留められていた一日が、そこにいた自分には思いもよらないものに作り直されていく。そこにいた自分を弄ぶこともできる。

手軽に、みんなに、届けることができる便利なモノが、いつの間にか、自分自身を、手軽に、みんなに、届けることができる程度のモノにしていた。

一日を自由に振り返ることができる自分が面白いかどうか分からない。こうやって一日に感じたことを書き綴って終わらせようとしているいまの自分に気づくと、たとえば一月ほど何も書き留めない方が、面白く自分を編み直すことができるのかもしれないと思ったりもする。

それでも、目の前の出来事や、目の前にあった出来事のみに縛られて考えなければいけないのとは、はるかに自由さが違う。今は、一日を一日という枠だけで捉えてもいない。今日以外のものも自然に貼りついて編み上げられていく。

目の前にあるものを目の前にあるようにだけ捉えてしまうのは、残酷すぎて面白くない。目の前にあるものを目の前にないものになるまで編み上げていく方が面白い。

思えば、人と話すとき、人と過ごすときも、目の前のことに囚われがちになっていたような気もする。

もっと自由でいいのに。もっと話を拡げてもいいのに。嘘になってもいいのに。

もうすぐ死んでしまう人であるかのように、今の自分をすぐに切り取ろうとしなくていい。もうすぐ死んでしまうかもしれないけれど、格好悪いのは死んでしまうことがわかった時だけでいい。

今日は、最近ずっと気になっていた、「日々面白くなくなっていく自分」から、少し抜け出せるような、そんな予感を抱いた一日だったように思う。
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東京にいつ慣れちゃうのでしょうか

上京生活も1カ月以上過ぎました。

まだ死にそうな思いとかはしてないんですが、
沢山やりたいことがあってなかなか遊びに出たりはしなかったので、
知人には激務に見舞われているのだと思われることが多いようです。

そんなことないです。たぶん。結構楽しんでるし。

はじめは沢山の人がいる場所で働くということに戸惑いまくりでしたが、
すっかりソワソワすることはなくなり、電話のコツも思い出しました。

あと、休日にも社外の人と出会う機会も持てる程度は気持ちにゆとりができ、
GWに関西に戻ることはなかったですが、BBQについていったり、
ボルダリングに連れて行ってもらったりと、仕事以外でも楽しんでいます。

あとは仕事で成果を出したいですね。
もしくは成果に貢献したいですね。

経験が無いうちに、
できるだけ楽に、
成果を出したい。

経験則に頼るなら歴史のある組織に負ける。
楽にしないと良いものを作っても存続しない。
と僕は思っている。

たとえ、「世間は甘くない」と言われようが、
「じゃあ世間を甘くすればいいじゃないか」
と反抗し続けたい。

甘くできるところは甘くすればいいじゃないか。

どうしても甘くできない所だけに立ち向かえばいい。

今のところ、自分の馬鹿さのせいで、
自分の経験に教えられることもあるけれど、
このスタンスは未だ変えない。

そんなことを思いつつも、
毎日、経験に学ばされているバカな自分に対して情けなく思っています。

でも、今日も生意気にやってやります。
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「基本的なこと」の勉強をしている

学びたいことは沢山あるのだけれど、
その中で、何を自分は学ぶのが良いだろうかと
最近、特に論理学の勉強を始めてから、考えるようになった。

もちろん、趣味での読書では何を読もうが関係ないが、
それが少しでも以降の仕事に繋がるなら、それにこしたことはないだろう。

しかし、どういうものが自分の専門分野になるかは
就業後の配属次第によって変わるため、
変に何かの部署に特有なことを学ぶのも憚られたので、
もっと基本的・根本的なことから考えて、
確実に自分が必要とするだろうことは何なのかを整理してみた。

そうすると、
「①日本語で、
②できるだけ速く、
③できるだけ広い情報を、
④正しく応用して
⑤【自分の専門分野】で
⑥価値を生み出す」
という枠組みはおそらくほとんど外れないはずだという結論に達した。
(このように分類すると、「英語・IT・会計を学ぶべき」という言説にも納得できた。
英語は③を、ITは②~④、会計は⑥に対して大きな貢献をするのだろう)

ここで、⑤は不明確なので今は放置しておいて、
①~④、⑥は今からでも対策は十分可能だと思い、
それらの学習あるいは訓練を行っている。

それぞれ
①日本語の文法の学習
②速読の講座受講
③英語(特に今は発音)の訓練と歴史系の読みものを読む
④論理学を中心に、その他、簡単な哲学など
⑥財務諸表の学習(でもこれはちょっと後回しのつもり)
というようなことに取り組んでいる。

それぞれが今まであまり真剣に取り組んだことのない内容、
あるいは訓練方法なので、意外になかなか楽しめたことは幸運だった。


そして、これらの学習や訓練をする際は、
「基本的なことから学ぶこと」を意識している。

実践は基本の組み合わせ(応用)で成り立つことが多く、
基本的事項は評価基準にもなりやすい、
という2点が基本を重視する主な理由である。

この場合の「基本」とは何を指しているかというと、
「仕組みやルール」と「要素」のことである。

たとえば、
語学では、仕組み=文法、要素=単語 を指す。

しばらくは、この基本を大事にしながら学習しようと考えた。

というのも、実践やケースから全てを学ぼうとしても、
実践で経験できることには偏りがあるし、回数に限界がある。

実践のみから判断しようとすると、
何が応用で、何が基本的な事項か、
何が正しくて、何が間違っているか、
を感覚や雰囲気を元に判断しなければならない。

しかも、有識者がいなければ、
それが答えかどうかを組織内で誰も判断できない。

結果、経験の長い者が判断基準になることがよくあることだと思う。

彼ら(経験者)に対して、反論しようと思っても、
反論者が同様に外部に基準を持たなければ(≒経験を元に主張すれば)、
そこに議論の余地はなく、水掛け論や好き嫌いの話でしかなくなる。

それでは、自分も、相手も、
お互いの所属する組織やプロジェクトも、
評価が出来ないため、判断などできるはずがない。
そうなれば、いつまでも、発展や成長を考えることもできない。

だから、ある程度明確に形や枠組みが決まっているものは、
まずそれを、特に「仕組み」を、学ぶところから始めるべきではないかと考えた。

それが議論における共通の土台になりうるし、
お互いが納得できる評価基準にもなりうると思ったのだ。

では、自分は何に関する「基本」を学ぶべきなのか。
まずは、「自分にとって確実に使うもの」である必要があると考えた。

ここで、「日本語を学ぶべきだ」と気付けたのは幸いだったと思う。

自分は日本人であり、少なくともこれからしばらくは日本語で生活する。

しかしながら、
「自分は日本語を使える気がしてるけど、実は全く知らない」
ということに気付いた。

よく考えてみると、日本人である自分にとって、
日本語は生得的な長所の一つであるはずだけれども、
意識的にその訓練や学習をしたことはほとんどなく、
また、多くの日本人も同様だろうということに気付いた。

特に、2年間、自分が留学生のチューターとして、
日本語の指導をしていた時、
彼の日本語が合っているかどうかを
"感覚的に"気付くことができ、添削することはできたが、
それを上手に理論的に説明することはほとんど出来なかった。

せいぜい、英語を少し使いながら、
「この単語はこういう感じ」程度のことしか教えられなかった。

その頃、たまたま、論理学を一から勉強して、
「基本的な事項に立ち返る必要があるんじゃないか」
というぼんやりした思いを抱いていたというのも相まって、
「非常に基本的なこと」であるはずの日本語能力
の無さを放置しておくのは非常に勿体ないと気付いたのだ。

そこで、自分の今から学ぶべき基本的な事項を先ほどの①~⑥のように
整理した時に改めて日本語を学ぶ重要性を認識したのだった。


巷では、英語や中国語を学ぶことの重要性が叫ばれていて、
情報へのアクセス可能性を考えるとそれも理解できるし、
自分も英語の発音に関しては別途学習というか訓練を始めたのだけれど、
母語以外の語学を体系的に学ぶにあたって、
まず「語学」というものを理解することが必要だと思い、
それを実現するための近道は日本語だと言えないだろうか。

実際に勉強してみると、
高校までの日本語の文法学習は、
結構抜けやモレがあることに気付き、
しかも、大学で使うレベルの文法書を読むと、
日本語の文法を学ぶだけでも
他言語、特に英語との共通点や差異にも気付けることが分かった。
(該当書籍では言語学的な解説がされていて、
その点は過去に学んだ英文法と非常に似通っている部分があった。
実は、高校までで日本語より英語の方がしっかり文法を学んでいたのである)

また、これから海外から来た人達とも一緒に働くときに、
自分が自国語の基本的なルールを理解していて、
しかも応用にも対応できる人であることは、
彼らに対する貢献にもなるのではないだろうか。
(そしてうまくいけば彼らの言語も教えてもらえるかも…なんて思っている)


こんな感じで②以降(つまり日本語以外)に関しても、
基本的なことを重視しながら、ゆっくりだけれど、
今までに実感したことがないぐらい着実に歩を進められているように思う。

もちろん、最終的な実践の質は、
基本+応用によって決定されるわけで、
特に②以降は応用力をつけたり、要素の暗記の為に
経験や訓練をこなすことが必要であることは分かっているし、
それも次に取り組まないといけない。

とはいえ、とにかく、
何よりもまず「立ち返る基準」を学ぶことが必要だったんだなということは、
学びの途中である現在、強く実感できていて非常に喜ばしい。

それによって自分がどれほど進歩しているかが測れるし、
人への説明もでき、経験への固執に囚われることを避けられる。


今まで、急がば回れ、とか、基本が大事、とかいう表現は、
なんだか分かるような分からないようなイマイチ掴みどころのない表現だったけれど、
(「回るってなんだよ」とか「基本ってなんだよ」とか思ってた)
基本=「必ず通り、立ち戻るであろう、基準となる体系的なもの」
なのではないか、と理解してからは、
とても現実感のある表現として見られるようになった。

明らかに、今やっていることは学部の教養で見に付けておくべきことなんだろうが、
現在、自分に身についていないことであることは疑いようのない事実である。

これを無視していては、
何を学んでも、一定以上は積み上がっていかないような気がするので、
自分が数年遅れているという事実を潔く受け入れて、
初学者として少しずつでも確実な歩を進めないといけないのだと思ってやるのみである。

自分には少しずつ積み上げていくことは向いていないと思っていた時期もあるけれど、
それはやり方が間違っていたんだと、この年になってやっと気付いた。

あぁ。
人生のうち長い時間を無駄にしたなぁ。
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