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【出遅れ感想】an・an 2011年 9/7号


an・an (アン・アン) 2011年 9/7号 [雑誌]an・an (アン・アン) 2011年 9/7号 [雑誌]
(2011/08/31)
不明

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もう最新号が出ている雑誌について書くのもどうかとは思うけれど、
しばらく話題になってたっぽいan・an「2011年 9/7号-感じあう、SEX-」についてちょっと書いてみる。


僕はこの本についてどう語られていたのか知らないし、
調べるつもりもないけれど、

僕の「ananを読んだ」という旨のコメントに対して、

男性A:(1)実践するまでが、ananとはよく言ったものだよね。RT anan読み切った!DVDも見てみよう
(2)君もエロ本とか買うんだね///RT 話題になってたのでanan買ってみた。DVDついてんじゃん!
男性B:私も実践してみます。(以下略)
女性A: 今月のananつまんねー!くだらねー!っていう、性過激派の人がTLにちらほら見受けられたんだけど、実際のところどーなの?ちなみに私は、表紙の「S」の文字見ただけでもう赤面ガクブルでした(/////)
女性B:かんそう! (僕のanan読んだというコメントに対して)
女性C:私も今月のanan興味あるwww

といった反応が来た。


ここに僕は媒体の力を見た。

ananは男性誌と女性誌の間にある、珍しい媒体なのだと思う。

いわゆる男性誌(「エロ本」と言ってもいい)は女性が手を出しにくいし、
手を出したらその場や行為がネタのように扱われがちになる。

逆に、他の女性誌は男性から手の届かない存在であり、
それに手を出すと、それ相応の意味が見出されてしまう。

しかし、ananは、(これも女性誌であるのだが、)
他の余計な意味を含ませること無く、
多数の人にSEXについて考えさせたり、
意見交換をさせる場をもたらす媒体となっているのではないだろうか。


性差に限らず、様々なクラスタの人同士が、
ananを舞台にしてSEXについての意見交換ができるようになっている。


上のコメントにあるような、
「今月のananつまんねー!くだらねー!っていう、性過激派の人」も
他の女性のSEXに興味がある人も、
ただ単に性的な会話が好きな人も、
一緒になってあの話題をオープンな場で行っている、という動きが起きた。

これこそが媒体の力だと思ったのだ。


僕はananという雑誌以外にこういう動きを起こせるような媒体が思いつかない。


そこから僕が気づいたのは、
「ananがあれば相手と、真面目にSEXの話をしやすい」ということ。

だから僕はananを買うことを決めた。
立ち読みでは、内容は持ち帰られるけれど、ananは持ち帰ることができない。

それでは意味が無いのだ。
(というか、同様の内容を書いている本はすでに僕の家にもあるはずだ(笑))


その事に気づいて、僕は
「実践するまでが、ananとはよく言ったものだよね。」と言うコメントに対して、
「ぼくは『実践するときに』という結論です」と返した。


人とSEXの話をするために、
僕はこのananを部屋の中の見えるところに置いている。

SEXについて話す機会は今までもたくさんあったが、
"真面目にSEXについて話す機会"は今までほとんどなかったように思う。


家で飲みでもする時、そういう機会も持ってみたい。
茶化すこと無く、隠すこと無く。


それもきっと出来ると思う。
(でもこのblogを見た人は嫌がるかもしれないなw)


こういう媒体の力を目の当たりにすると、
安易に
「ネットは伸びてる」「4マスはもうダメだ」
なんて絶対言えないなぁ。


締まりが悪いが時間がないのでこのへんで。
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感覚が無いことを考えてしまう

考えても考えても全然分からないことがある。

美味しいって何?
愛情って何?
ハモるって何?

そういうことを学ぶには
経験(体感)と確認が必要なのだと思う。
(理論で学ぶことは経験と確認なしでもできるかもしれないが)

最近読んだ漫画に
僕は友達が少ない 1 (MFコミックス) (MFコミックス アライブシリーズ)僕は友達が少ない 1 (MFコミックス) (MFコミックス アライブシリーズ)
(2010/07/23)
平坂 読

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というものがある。

(ってか最近MFコミックスばっかり読んでるな…)

登場人物は友達が少ない(というかいない)人達が、
友達を作るための部活「隣人部」を設立し、
友達を作るために思考錯誤をしていく。

そこで、部活を設立することになる女の子と男の子の間で
以下のような会話が繰り広げられる。

男「…どうすりゃ作れるのかな…友達」

女「前の学校でも友達がいなかったのか?」

(続けて「前は人望あるやつ中心のグループ繋がりでつるんでいた」という話をする)

男「普通に友達になろうって言うのは?」

女「…そういうのはドラマとかでたまに見るけどよくわからないのだ
友達になろうと言って相手に承諾されたら
その瞬間に友人関係が成立するのか?
友達になることを承諾されて以降
全く会話しなくても友達状態は続いていると判断していいのか?」

男「…まあ そういうのがしっくりこないのは俺も同じだけど」

という会話がなされる。

(今は関係ないが、この会話の後に、
「「友達がいること=いいこと」なのは
基本的にはその通りだと思うけど
それが世間では
「友達が少ない=悪いこと」
と同義語のようになっている」
という意見があって、なるほどと思った)

僕も友達がどういう人なのかが分からない。
恋人とか親友とかそういうものもなんだかよく分からない。

好きな人達は沢山いるけれど、
彼らが友達なのか、親友なのか、恋人なのか、判断できない。

友情があるのが友達ならば、友情とはなんなのだろうか。
恋愛感情があるのが恋人ならば、恋愛感情とはなんなのだろうか。

僕も彼ら(登場人物)もそれが理解できないのだと思う。

「この人たちは友達です。」と紹介された人達と紹介者の関係を見ていると、
それが「友達」だとひとくくりにできるような一様な関係には僕には見えない。

「友達でない人」と「友達」と「親友」の違いを見分けることができない。

でも、じゃあ「好き」が分からないかと言われれば、
説明はできないけれども、感覚は分かるのだ。

きっとそういうことを学ぶには、
教えてくれる人が必要なんだと思う。

人によって感じている感覚が違うということは関係ない。
それがもしずれていたとしても仕方が無い。

そんなことは関係なく「これは友達ですよ」と教えてくれる人が必要。

(もし、その時に教えてもらう側が不の感情を抱いていたら
こういう事件になってしまうのかもしれないが。)


今日読んだ、
ばもら! 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)ばもら! 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
(2009/09/23)
長田 佳巳

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でも、
最近流行っている
君に届け 1 (マーガレットコミックス (4061))君に届け 1 (マーガレットコミックス (4061))
(2006/05/25)
椎名 軽穂

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でも、友達がいない主人公に、
「これが友達だよ」or「私たち友達じゃん」という
"先輩友達"のような存在が友達とは何なのかを教えてくれる。

それはまるでキュリー夫人が
触れて見せて、「これは水です」と教えてもらったように。

誰かから教えてもらわなければ分からないものは沢山ある。

刷り込み形式で何かを教わらないと、
他のものを学ぶことができない。

「ぱぱ」「まま」「まんま」などを褒めてもらう事から言葉を覚えていく。

その為には、感覚を分からせてくれる人がいるのだろうと思う。
それは親、親戚、先輩、後輩、同級生、生徒、様々な人がしてくれる。

彼らが
「これは愛情です」
「私達は友達です」
「これが美味しいものです」
と幼児に教えるように教えてくれる。

しかし、そういう感覚が無い者は問うてしまう。
そして、相手は言葉で答えようとしてしまう。

「愛情とは○○で△△なものだよ」
「友達は■■と××と★★がある関係かな」
「美味しさとは◎◎と□□と●●の多寡によって決められる」

そう答えても、さらに疑問が生まれる。
「○○とは?」
「それがあれば全員友達なの?」
「□□ってどうやって測るの?」

そして、堂々巡りが始まる。


例え辞書を調べても

「あい‐じょう〔‐ジヤウ〕【愛情】
1 深く愛し、いつくしむ心。「―を注ぐ」
2 異性を恋い慕う心。「ひそかな―をいだく」」

と書いてある文字情報を理解できるだけである。


愛情は愛情を知っている人に教えてもらうしかない。
音感は音感を持っている人に教えてもらうしかない。

ある程度からは自分で発展させていけるのかもしれないけれど、
その元となる感覚は相伝してもらう必要があるのではないか。

逆に、教える側に立った時は
言葉で説明してもどうしても分からないことに関しては(よくあることだが)、
分かるための経験と確認を与える必要があるのだと思う。

山本五十六の有名な言葉である
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
は、学習の効果をあげる方法として知られているが、

これは経験や承認の要素を取り入れる事によって、
この方法はいかに多くを学ばせるかだけではなく、
一人では学ぶことができないような種類の事を学ばせる方法をも
示している言葉なのではないかと思った。

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誰に投票するかじゃなくて、決め方が気になる。

ちょっと前に選挙が終わりましたが、
誰に&どこに投票するかを考えるよりも、
選挙制度ってどうなっているんだろうか
or
制度によってどういう影響があるんだろうか、
と悶々考えているうちに選挙が終わっていました。

前回はちゃんと投票したのに。

日本の選挙の仕組みについては
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050808A/を。

今は小選挙区比例代表並立制が採用されていますね。

小選挙区制では一番の人気者が当選する一方、死票が多く、
比例制度は票が分配される分、小政党が乱立してしまう恐れがある制度です。


物事を選ぶとき、色んな決め方があります。
よく使われる多数決でさえ、様々なやり方があります。


例えば、どこか旅行に行くとしましょう。
3人の人がいて、それぞれの希望場所の順番は
Aさんは 東京 > 名古屋 > 大阪
Bさんは 名古屋> 大阪  > 東京
Cさんは 大阪 > 東京  > 名古屋
だったとします。

普通に決めようと思っても、決まらない状態なので、
ここで工夫をしてみます。

まず、
「東京と大阪ではどっちに行きたいか」と聞くと、
2対1で大阪に決まります。

そのあと、
「大阪と名古屋でどっちに行きたいか」と聞くと、
1対2で名古屋に決まります。

よって、名古屋に行くことになります。


このように、決め方によって、何に決まるかが大きく左右されるのです。

もっと人数が多い時には、
・最も行きたい所だけに投票する
・最も行きたくない所だけに投票する
・各候補地に点数を振り分けて合計する
・勝ち抜き(トーナメント)制を導入する
・総当たり(リーグ)制で決める
などがあります。
(他にも任命制など、選挙以外の決め方もある)

それぞれの決め方で決まる人の特徴が変わったり、
アクシデントに対応できにくい等の問題を抱えていたりします。

それぞれについて考えてみましょう。


・最も行きたい所だけに投票する
これだと一番行きたい人が多いところが選ばれます。
選挙の「小選挙区制」と同じ方式ですね。

もちろん、問題は死票です。
得票率が51%でも通るわけです。

もしも、49%が「絶対に行きたくない」と言っていても決まります。
もっとも人気がある人が通るけれど、
嫌われているかどうかは結果に影響しない、ということです。



・最も行きたくない所だけに投票する
これなら皆が忌避する場所を避けられます。
無難な答えが出るということです。

さっきとは逆で、全員でもっとも行きたいところに行けない可能性があります。
つまり、死票が生まれる事はさっきと変わりないということです。

嫌われては困る役職はこの方法で決めるとよいですね。



・各候補地に点数を振り分けて合計する
例えば、1位3点、2位2点、3位1点、という方法で集計する方法です。

これはなんだかフェアな気がしますが、
これはこれで問題があります。

例えば、1つの候補地が災害等で行けなくなった時に、
他の候補地の点数が変動してしまう。

つまり、他の投票結果に点数が依存しているんですね。

だから、もし徒党を組めば、ある候補地を潰すこともできるのですね。
「東京なんて絶対に行きたくねぇよな!」と団結すれば、
団結した皆が東京を最下位にすることもできます。

口裏合わせをせず、当選後に変更が無ければ
比較的公平性を感じられる案かもしれませんね。



・勝ち抜き(トーナメント)制を導入する
不人気の候補を消していき、
最後に生き残った所を選ぶ方法ですね。

これは先ほど示したように、1つ1つ比べるなら、
組み合わせの方法によって当選者が変わります。

他にも、全てに一気に投票して消していくのなら、
例えば候補地が
新宿(東京)、難波(大阪)、心斎橋(大阪)
の3つであれば、始めの投票で大阪の票が割れてしまって、
東京が勝ちやすくなってしまいます。


・総当たり(リーグ)制で決める
全ての候補に関して2つずつ投票して決める方法です。

これが一番フェアな気がしますが、
これの一番のネックは投票回数の多さですね。

候補地が5つあれば20回投票&集計が必要です。

小さい規模のものならともかく、
政治の選挙などで採用するのは現実的じゃありません。



このように、どれもがそれぞれ長所、短所を抱えています。

何かを決める時、どういう人が選ばれるべきかをまず考え、
それを元に決め方を考える必要があると思います。


革命者を選びたいのなら死票は厭わず人気者を、
緩衝剤的な人選をしたいのなら嫌われていない人を、
全ての票を無駄にしないようにしたいのであれば点数制を、
運も含めて持っているような人を選びたいならトーナメントを、
手間はかかっても各候補をそれぞれ比べたいなら総当たりを。


しかし、みんながこの知識を持ってしまうと
「決め方」の決め方で争ってしまう恐れもあるのですが(笑)


参考

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)
(2008/06/17)
高橋 昌一郎

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Unpluggedへ向かっています。

僕はすぐ気が散るほうなので、
最近は散った先をできるだけ
(主に読書に)集中させようと工夫しています。

twitterも辞めたし、
家にいる時は携帯を自分の手の届かない所に置いているし、(子供かw)
ゲームのアプリは気が向いた瞬間に削除します。
(今日は出来心でダウンロードした「風来のシレン」を削除しました)

だから、少しだけテレビを見る機会も増えました。
食事してるときとかついているし。

でも、昼の番組とかはくだらな過ぎて見れません。
情報バラエティ番組の情報を信頼できません。
(ってか「情報バラエティ番組」ってなんだよって感じ)

今日、そんなことを考えていると、
家の中に
テレビ局の裏側 (新潮新書)テレビ局の裏側 (新潮新書)
(2009/12)
中川 勇樹

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という本があることに気づきました。

これがなかなか面白い。


でも、テレビを純粋に楽しみたい人は
この本も、この記事(の本に関する部分)も読まないほうがいいと思います。



幼い頃に親しんできたメディアの仕組みが分かって、
なんだか嬉しい半面寂しくもありました。

それにしても、最近は「ネタバレ」的なモノが売れている気がします。

漫画では
「バクマン」を始めとした漫画化になるためのストーリーとか、
「ブラックジャックによろしく」など、医者モノはいろいろありますね。

テレビを見ていると、
バラエティでテレビ専門用語はずいぶん飛び交っているし、
「ボケ」「ツッコミ」はもちろん、
「出オチ」「鉄板」「おいしい」なども誰もが分かる語として使われています。
お笑いの仕組みも公開されつつありますね。

他にも、クイズ番組では、
業界の内情などをクイズのネタにしたりするのも良く見られます。

視聴者は内情を吐露してもらうのが好きだと思われているんでしょうね。
秘密好きが多いのはなんとなく頷けるし、
実際に数字が出ているんだろうと思います。

しかし、内情の切り売りは他社(者)の追随を
促進させるものだと思うんですがね。

それでも短期的な売り上げが欲しい、
あるいは欲しいと思う人がやってしまっている、のかもしれませんが。




本の内容としては、


テレビ内の格差、
内部の下請け・孫請け構造、
スポンサー・CMの仕組み、
やらせ報道などの問題、
その他番組の作り方、
などについて書かれています。


仕組みが分かるとモノの見方が変わります。
その見方は忘れないと戻すことができません。

きっと僕のテレビの見方は変わらないのだろうと思います。

やっぱり少し残念です。
もっと無邪気に僕を魅了してほしい、と思います。

しかし、この本に手を伸ばしたのは、
もう魅了してもらえる気がしない、
という意識があったからというのもあるでしょう。

あるいは、もうこれくらいのレベルに陥ってしまったのなら、
自分にも何か盗めるところがある、と思ったのかもしれません。


実際、この本にはいい意味でも、悪い意味でも、
「だまし方」の裏側について詳しく記述されています。


テレビは「いかに魅せるか」を大事にするメディアです。

それは
「いかに面白いか」という形になることもあるし、
「いかに分かりやすいか」という形のときもあり、
「いかに美しいか」という形になる場合もあります。


よって「本質」よりも「現象」を捉えがち、
さらに、「現象」をより鮮やかに見せようとしがちなメディアなのです。

テレビを見ていても、(ネットをみていると特に、)
スポンサーの現象、番組制作費の現象というものが、
視聴者にも聞こえるようになってきました。

番組内でも「制作費の削減の為」などと口走る人も出てきました。


その制作費を圧迫するのは、タレントのギャラ。
そして、報道にかかる費用らしいのです。

タレントのギャラはどんどんアップしていきます。
制作費は変わらないのに、ギャラは純増していきます。
それにより、下請け・孫請け制作会社へのフィーが圧迫されます。
制作費減少と親会社からの数字に対する圧力によって、
ねつ造・やらせができやすい仕組みとなっているそうです。

ただ、ギャラよりも費用がかかるのが報道への費用なのだそうです。
なぜなら、高額の機材と多数のスタッフを
長時間常駐させる費用が発生するから。
(それを削減するためにテレ東は特番をしないとのこと)

よって、高額のギャラのタレントを使うときは、中継などはほとんど入らないし、
逆に、中継や取材が多い番組は高額のギャラのタレントを使えない。

どう数字を取るかに、スポンサーからの制作費がかかっているので、
その他にも様々な趣向を凝らして、数字を狙う。
(グラフの多用、「平均値」の乱用、都合良い結果のみの紹介とか)

そもそも、その数字(ビデオリサーチという会社が視聴率を測っている)というのが、
視聴率10%であれば統計上の誤差が±2.4%,
視聴率20%であれば統計上の誤差が±3.3%あるというから驚きである。

そんな不安定なものを目指して
苦労とプレッシャーが積み上げられてできている。


テレビ局、特に制作会社へのプレッシャーは半端ではないようだ。


親会社、世間、スポンサーに加えて、
他にも、法律の縛りがあるらしい。

というのも、日本の民放は許認可制だからだ。
完全な「報道の自由」というものは存在しないらしい。


以前から偏向報道をやっているのではないか、
と僕は思っていたのだけど(しているかどうかは分からないけど)、
そういうのをしても仕方ないような仕組みになっているのかもしれない、と思った。


少なくとも「情報バラエティ」という番組の情報は僕には信用できない。


今では懐かしい「電波少年」というバラエティでのやらせが発覚した時に、

「日本テレビの氏家社長(当時)は、「番組の性質上、道義的な責任は無い」とした。
つまり、バラエティだから問題ないという見解を示したのである。
(中略)
つまりドキュメンタリーのような作りをしていても、
バラエティ番組を銘打っていれば、
視聴者に黙って「仕込み」をしてみもいいということが常識化する。
仮に発覚しても「バラエティなんだから」と公式に表明できるわけだ。」(p.112)

と著者は言う。

そういえば最近は色んな「バラエティ」が増えた気がする。

それこそが今の制作側の逃げ場なのかもしれないと思うと、
なんだかやるせない気持ちになる。


本書の終わりの方にこんなことが書いてある。

「最近は1日の最高視聴率の番組が16%代、
しかもNHKの「ニュース7」という日が珍しくない。」(p.202)

インターネットに始めに進出したのもNHKだったようだ。


NHKが真っ白な組織だというつもりではないが、
NHKを信じたくなる気持ちは分かる。


番組の作り方、
バラエティ番組の「空気」、
どのチャンネルでも観られる「流行」。


そういうものはお腹一杯。
中身も知ると構造が見えてしまう。

いつからだろう、
テレビを観ていて
「この作り方、うまいなぁ」という感想を漏らし始めたのは。


もう純粋に番組を楽しむことはできなくなるんだろうか。
そう思うと、やっぱり少し寂しいなぁ。

ってかこの記事、途中で敬語が消えた(笑)
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哲学者に影響されて夢を見た。

後輩の女の子とご飯を食べていると、
その店に友人達が押し寄せ、
彼らに気を遣って友人達の道案内をしている間に、
後輩の女の子が帰ってしまっていて、
寂しさを感じながら一人で街をさまよっていたら、
別の知り合いの女の子がいたので、
一緒にバーで飲むことになり、
その流れでホテルに行くことになって、
たどり着いたホテルの部屋が
「キティ仕様(女仕様)」と「エヴァ仕様(男仕様)」に分かれ、
なぜか1部屋だけ「ガンダム仕様」の部屋があり、
キティが嫌なので男用で唯一空いているガンダム仕様を選んだところ、
気付いたら女の子が帰っていて、
知人の男と一緒に入ることになり、
ホテルのシステムを聞いていると、
「時間内に様々なテーマに合わせてプレイができる」
という内容で、突然ワープし、なぜか橋の上で、
「アッー!」なプレイに突入することになったが、
いちいち相手を気遣う段取りがめんどくさくなって、
「チェンジ」と思った瞬間に相手が女性に代わり、
普通にプレイを楽しんでいたら、
いつの間にかまたワープして、
プレイの時間切れが近いことに気付いた僕は、
ホテルの場所を探すが、一向に見つからず、
タクシーを拾おうと道端で手を上げるが、
バイクに乗った女性が捕まってしまい、
そのまま二人乗りでもとのホテルを探すのだけれど、
たどり着くのはどこも怪しい場所ばかりで、
一向にたどり着く気配がなく、
二人で途方に暮れているところで目が覚める。


昨日から今日にかけて読んだ本は、
知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)
(2010/04/16)
高橋 昌一郎

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哲学・形而上学・科学(科学哲学)・論理学などをベースに、
言語の限界、予測の限界、思考の限界という三章にわたって、
知性の限界について述べている。

そこで出てきた
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

ポール・ファイヤアーベント

他に、哲学を読んでいるとたびたび思い出してしまう
ミシェル・フーコー

なんかの私生活(というか性生活)が影響して、
冒頭のような夢を見たのだと思う。

(ちなみにファイヤーベントは4度結婚した情熱家(しかし性的不能)、
ウィトゲンシュタインとフーコーは同性愛者とされている)

本書は様々な立場の人物が登場し、
(大学生・会社員・運動選手などの一般人から(それにしては理解が早すぎる気もするが)、
論理実証主義者・ロマン主義者・複雑系物理学者など)
懇親会の形式で哲学的な議論が進んでいく。

神の存在、
科学とは、
予測可能性、
演繹法と帰納法、
世界と言語の関係性、
人間と言う存在、
宇宙論など、
様々な議論について
できるだけ一般の用語に落とし込んだ議論を読むことができる。

筆者曰く、多くの人が登場する対談形式にすることによって、
読者もその議論に加わりながら読んでほしいということらしい。

その目的が達成されるような形になっているかどうかは
反証が非常に難しいものだけれど、
少なくとも議論が可能に出来るようにと、
難しい議論が、(少しは)平易な言葉に置き換えられながら、
多数の不可解な問題についてなされている。

しかし、明確な答えは提示されている訳ではない。

本書では沢山の思考の種が与えられ、
後の使い方、選び方は読者に任せようということだろう。

神を信じるべきかどうか、
何が科学で、何が科学ではないか、
宇宙とは現状にたどり着くためにできたのか、偶然なのか。

そういう事を考えるためのヒントが本書にちりばめられている。

これらは知者と言われるような偉大な哲学者達が
あーでもない、こうでもない、と議論して、
未だ共通の答えが出ていない問題であることに注意したい。

自力では明確な答えがほぼ出ないであろう事に囚われるかもしれなくても、
それらの問題に触れてみたいと思うのか、
知らぬが仏、で、そういう問題に触れないで、
実際的なことに触れて生きるのか。
(触れて、自分だけが一番納得できる答えを選ぶ、という方法もある)

今までこういう問題に触れたことが無い人にとっては
この記事が蝶の羽ばたきになるかもしれない。

僕はもう囚われてしまったので、
前著
理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)
(2008/06/17)
高橋 昌一郎

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を既に予約してしまった。

今日は色々な議論に触れながら、
しばらく死ぬことを怖れていなかった僕が
死が震えるほど怖くなったり、
神や宗教の比較をしようとしてみたり、
神を信じて見たくなったり、
僅かな間に人生の変化の可能性を体験できた。

認識の変化の影響力の大きさと、
認識の変化の危険性を感じた日だった。



まだ今日は5時間半もあるんだけどね(笑)
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