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まっくらやみのエンターテインメント

少し前に、ダイアログ・イン・ザ・ダークというものを体験してきた。

"目以外のなにかで、ものを見たことがありますか?

 暗闇の中の対話。
 鳥のさえずり、遠くのせせらぎ、土の匂い、森の体温。水の質感。
 足元の葉と葉のこすれる枯れた音、その葉を踏みつぶす感触。
 仲間の声、乾杯のグラスの音。
 暗闇のあたたかさ。

 ダイアログ・イン・ザ・ダークは、まっくらやみのエンターテイメントです。

 参加者は完全に光を遮断した空間の中へ、何人かとグループを組んで入り、暗闇のエキスパートであるアテンド(視覚障害者)のサポートのもと、中を探検し、様々なシーンを体験します。
 その過程で視覚以外の様々な感覚の可能性と心地よさに気づき、そしてコミュニケーションの大切さ、人のあたたかさを思い出します。"

ホームページではそう紹介されている。

ぼくは、目以外の何かで、ものを見たことがない。
それは、このイベントを体験した後の今でも。


ここでは、完全な暗闇の中で、白杖を持ち、暗闇の中を仲間とともに協力して進んでいく。

そこでいつもは気付かないことに気付き、人の温かさを感じ、
目が見えない人達がいかに協力し合って生きているのかを知る、、、らしい。


しかし、
ぼくにとっては、目をつむったまま色んな事をするイベントでしかなかった。


ぼくはすぐに白杖に慣れ、アテンド(案内人)に驚かれるほど早く歩けるようになり、
遊び道具をみつけてはちょっかいを出し、人のお菓子を食べたりなんかもしていた(笑)。

いつもと同じだった。
目をつむって行動している時と同じ。


ただ、課される課題が協力を必要とし、
声を掛け合い、触れ合わなければクリアできないものだっただけだ。


トップページにあるような
"まっくらな中で五感をとぎすます。
森を感じ、水の音を聞き、仲間と進む。"
ということは視覚障害者にとっても非日常であるはずなのに、
体験者はワークを通じて日常に何かを持ちこもうとするように見えた。


次々と与えられる課題を通じ、
皆は声を掛け合い、手をつなぎ合い、
一緒に課題をクリアしていく。
それによって、一気に互いの距離を縮めていく。

盲目者の生活の難しさを体験する、らしい。


そんな姿を観察していたぼくも、同じように皆との距離を縮めていった。
なぜなら、そこではそういう課題に従う必要があるからだ。


しかし、周りの人はすっかり課題にのめり込んでいるようで、
彼らの反応が非日常なものばかりになっていた。

試しに、今日会ったばっかりの人にいわゆる「恋人繋ぎ」をしようとしてみたら、
すんなりと受け入れようとしていた(でも寸止めしたw)し、
水をかけるなどのいたずらをしたときは誰も批難も叱責もしてこなかった。
(もしかしたら、みんなが「そういう課題だからだ」と
僕の奇行を我慢してたからかもしれないけどw)


課題を通して助け合うことに慣れた一行は、
休憩時間になった時、すっかり饒舌になっていた。


明らかに物静かそうだった人さえも、楽しそうに話しあっている。


ぼくはそこでも一通りいたずらを試した後(笑)、完全に口を閉ざしてみた。

何かが見えるようになったらしい皆には、その瞬間から僕のことが全く見えなくなった。


おしゃべりになったみんなには気付かれないけれど、
おそらく、僕は素の顔をしていたんだろうと思う。


気付かれなくなったぼくからは、
"何かがより分かるようになった"らしい皆が、
声を掛け合わなけりゃお互い気付けないようになっただけなんじゃないかと思えた。

何かが見えるようになったわけじゃなく、発信するしかなくなっただけじゃないかと。


一方で、ぼく自身は目が見えなくても、
あまり変わらなくて居られるんだ、と気付いた。


ぼくにとってはいつも使っている視角という手段の一つが使えなくなるだけで、
口調や息遣い、足音は普段通りのレベルで聞けているし、
食べ物もいつもと全然変わらない。特にうまみが増したりもしない。


自分自身に対してはほとんど変化を感じない中、
皆の感覚が異常になっているように見えることが興味深かった。

適応するための最低限の道具と案内はついているのにも関わらず、
視角をシャットアウトするだけで、
こんなにも人間は適応できなくなるんだなぁ、と。


皆はそんな経験を繰り返していく。
ぼくはぼくでそんな経験を繰り返していく。


イベント案内において、
「見えないから、見えないものがある。」
そんな言葉を見た。

しかし、ぼくが感じたものは、
むしろ、見えなくなってみたことによって、
見えなくならなくてもいいものも見えなくなっていないか。
ありもしないものが見えると思えるようになっただけではいないか。


そう思った。


自分は新たな環境にほとんど驚かなかったし、自分が変わった気もしなかった。
だからこそ、他の人の驚きや、変化にひどく驚いた。


イベント前に、ぼくは、待合室にあった
「まっくらな中での対話」(茂木健一郎 with ダイアログ・イン・ザ・ダーク)
という書籍を少し読んでいた。

そこにはアテンドの人へのインタビューが載っていた。

「盲目の人達の体験をさせるのが目的ならやっていません。
エンターテインメントであるから私たちは関わっているのです。」
というようなアテンドの一人の言葉が印象に残っている。


ただ、それが本当に伝わっているのだろうか。

疑似体験をしたからこその強引な理解(≒誤解)が
多くの人になされているような気がしてならない。


それを狙ったイベントだとすれば、
それは上手くできていると思うし、
それはひどい仕組みだとも思う。


イベントが終わった時に、アテンドの人に
「いいキャラをしてますね」と言われた。

ぼくは、彼と光の中で正対するのはちょっと我慢できないだろうけど、
ワーク中の彼の冗談は好きだったし、
この人とは遊びに行ったりしたいなぁ、と思っていた。


経験後もそう思えたぼくの感覚は、前とほとんど変わっていなかった。


その日はとっても楽しかった。
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フロリダに帰ってきた感じ

今は新しいことに触れているというよりも、
何かを思い出しているような感じがする。

こっちは
飲み物が安い(ペットボトルの水なんか$3.5/24本)
非常に埃っぽい(夜になると目がかゆい)
クーラー耐性ハンパない(僕はフリース着てるのに震える)
嬉しかったらすぐハグする(僕はもちろん応える。柔らかい)
まぁ何かしら全部、ぶあつい(腹とか食い物とか面のkry)。

しかし、これらすべて「比較論」で言えることであり、
今のところ、「決定的にこれが欠落/存在」しているというのは実感しない。
僕に知識や受信器官が無いからなのかもしれないけれど。


そういえば、こちらに来てから、
「フライトはどうだった?」と聞かれることが多いのだけど、
フライトからすでにAmericanismを感じていた気がする。

飛行機に乗った時から接客は個人レベルであるのを感じた。

日本企業のように「○○社の一員として」ではなく、
個人として客にサービスをする(しない)という印象を持った。

どの店に入っても店員は個人として、
文字通りfriendlyに話しかけてくるし、
逆に言うと、店舗の利益に繋がるような接客をしてこない。

ただ、各場面で「個人」を感じる半面、
「個性」というのをあまり感じられない。

枠にはめた様な特徴、人格を持つ人が多い気もする。
(これも僕に受信する力が備わってないからかもしれないけれど)

しかし今はまだ一日が過ぎただけだから、
なかなかうまく自分が機能しないのがもどかしいな。

ただ、すでに日本語が少し不自由になってきているのは
自分を評価できるポイントかもしれない。
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化粧をしたこと。服と自分の間。

そういえば、少し前、化粧をしてもらいました。

化粧をしたのは某化粧品会社に努め、
今は百貨店の店舗で研修しているひと(男)。

つまり男が男に化粧をする姿をUstなるもので、
ネットの海に垂れ流していたんですが、
本格的に化粧されるのは人生初だったので、
なんだか不思議な気分になりました。

肌がとっても綺麗に見えたり、
アイメイクって上目遣いよりも伏し目がちの時に活きることに気付いたり、
化粧の仕方によって輪郭(の印象)さえも調整できたり、
自分が(特に自分の美しくない部分が)美しくなっていく様、
それによって自分の心境が変わることを実感しました。

ただ、それだけではなくて、僕は
寝巻で化粧をされることの違和感も感じたのです。

そこで、もしかして化粧って、
自分と服(あるいは外部)との間に入る要素なのかな、と感じました。


自分自身の体はいつでもどこかに接続していて、
すぐに身体は変化に適応できないものなんだと思います。

たとえば寝起きの時は、身体は寝起きの状態で、
歯を磨いたり、ご飯を食べたり、服を着たりすることで、
徐々に自分を寝起きの状態から別の状態に持っていく。

その時に、化粧は、特に自分と服との間を
スムーズに接続する役割をするんじゃないでしょうか。

(化粧をしない)男でも、顔を洗ったり、
整髪することでそれに近いことをするのでしょうけど。

いくらスーツをびしっと着ても、
眼ヤニが残っていたり、髪がボサボサのままだと、
なんだか気分がにゅぅ~、ってなってしまう。

そこで、身体と服(や外部)とをうまく結び付けるものとして
化粧のようなものが役に立つのだと思います。

衣服には気分を変える役割がありますが、
その変化が急激では身体側がついていかない。

逆でもそう。

フルメイクでスーツをびしっと着て帰ってきたとき、
フルメイクのまま部屋着を着ても落ち着かない。

服装はオフモードなのに、
化粧によって身体がオンモードに引っ張られてしまう。

化粧ってのはある意味社会的な役割を果たしているのかもしれません。

僕は「すっぴんが好き」とか「すっぴんの方が綺麗」とか
思ったり言ってしまう人間なんですが、
綺麗だとかかわいいとかそういう問題だけではないのだろうと感じました。

よく考えてみると、(普段メイクをする)女の人は、
服を買う時も常にメイクをしているんだから、
メイクをせずに(外用の)服を着るというのは
不自然で仕方ない行為なのかもしれないですね。

メイクされた後、そんなことを考えていました。


そういう視点で男性向けの
「外部接続ツール」みたいなものが新たにできないのかなぁ、なんて思ったり。

香水などもありますが、
男の顔にはまだ使われていない(社会化されていない)面積が
沢山あるんだし。なんてことも思いました。


こんなことを偉そうにぐだぐだ書いておきながら、
僕は昨晩から化粧どころか服さえも着ていない状態なんですけどね(笑)
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「"これも自分と認めざるをえない"展」みてきた。

六本木で
企画展 佐藤雅彦ディレクション 「"これも自分と認めざるをえない"展」
を見てきました。

今はもう関西に帰ってきています。

サイトにもありますが、
この企画展のテーマは「属性」で、
とても考えさせられる作品が多い。

11月までやってるので、
一つ一つの作品について述べる事はしないけれど、
もっと大きなところで気付いた所が1つ。

それは「機械がやるか/人間がやるか」の違いは大きいと言うこと。

占い師のことを胡散臭いと言っている人でも、
診断アプリは進んでプレイしようとする。
めざましテレビの星座ランキングであれば楽しんで見る。

ぜんぶ人間が作ったものなのに、
プログラムになれば抵抗感なく受け入れる。

年齢を言い当てようとするという対人ならリスクの高い行為でも、
カメラとセンサー搭載のメカがやれば当たっても外れても笑い話になる。

人の気持ちがわかる脳―利己性・利他性の脳科学 (ちくま新書)人の気持ちがわかる脳―利己性・利他性の脳科学 (ちくま新書)
(2009/07)
村井 俊哉

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で紹介されていた話を思い出した。

あるゲーム(チキン・ゲーム)をしたときに

「相手が人間であると思っているときには、
相手が「意図」や「信念」を持ち、
それにしたがって判断・決断をするものとみなしていたが、
相手がコンピューターであると思っているときには、
「意図」や「信念」を持たないものとみなしていたのだ」(p46)


また、別のゲーム(10ドルの分割案を提示され、受け入れるかどうかというゲーム)
に関する実験の結果は、

「参加者は公平な提案をすべて受け入れた。
そして、提案が不公平になればなるほど、受け入れ率が下がっていった。
人と対戦しているときとコンピューターと対戦しているときとの比較では、
人と対戦している時の方が受け入れ率が低くなった」(pp.93-94)

とある。


今回の企画展では沢山の最新機器が使われていて、
かつ、興味深いテーマ、権威のあるディレクター、魅力的な作品が見られる。

それによって機械自体への疑問は
ほとんど無くなっているのではないだろうか。


機械は人間が作っているし、
機械には意図はないかも知れないが、
作っている人間には意図がある。

なのに、(特に大人は)機械の意見を無条件に受け入れる。


そう考えると「機械発」というのは相手の心理的な懐に入るには
かなり有用な手段なのではないだろうか。


「iPhoneアプリが相性抜群って言ってるよ」
そんなセリフは想像以上に効果的なアプローチなのかもしれない。
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夢と魔法の国について考えてしまった

人生で初めて夢と魔法の国にいきました。

本当は現実と同じようには考えちゃいけない国。
それが夢と魔法の国なんだなと思った。

あそこにあるのは夢や魔法であり、
現実の常識を持ってくることはタブーとされる。

それは夢と魔法の国が作った法律などではなく、
国民がタブーだと信じきっている。
つまり国民が作っているものなのだと思う。

だから、「これってありえないよね」という思いは封殺され、
「これが夢や魔法なんだ」という思いを持って帰ることになる。

可能な限り現実の要素を排除し(現実の建物が中から見えない等)、
どこか不可思議な魔法の国の構造物だけが見えないようにすることで、
ここは「現実ではない」という印象を強くさせているのだろう。

また、夢と魔法の国からは「夢と魔法」が生み出される。
「何か素敵なもの」がここから生まれる。

それはそのもののクオリティどうこうではなく、
そこで生まれたもの=「素敵なもの」だとみなされる。

熱烈な愛国者がたくさんいるこの国では、
国民をとても大事にしているように見える
国の施策が全て考えもなく受け入れられる。

「なぜ素晴らしいの?」とは考えない。
考えようと思っても、現実に準拠した考え方は排除されるため、
現実の世界からやってくる来国者には夢を分析する術も無い。

きっと、この国には実は国民はいないのに、
周りが国民に見えてしまうような世界ができているのだと思う。

来国者は「みんなが面白い」と言っているから
これが面白いんだと思い、それを現実世界に持って帰る。

そういう印象を持った人は「面白さの生まれる場所」である
夢と魔法の国に頻繁に戻ってくることになる。

そして、まるで愛国心の強い国民のような振る舞いをし、
それが集まることで来国者の心を奪う国民(のような)集団と化す。

国が表立ってしていることは、
「ここが夢と魔法の国」だと言っているだけである。
あとは国民は盛り上がるための施策を繰り返す。

エレクトリカルパレードはあの国の集大成である。
そこには「内容や一貫性が無い」ことが現れている。

何が楽しいかは分からないけれど、
なんだか楽しいんだろう、という気持ちで皆が盛り上がる。

母親は「ほら、ピーターパンが来たよ」と言う。
子供は「すごい!大きい!光ってる!」と言う。
スタッフは「これからパレードが来るので手拍子の練習をしましょう」と言う。

国の中では誰も、何が楽しいのか、
何が素敵なのかについて誰も言及しない。

「国内最大級のコースター」
「標高○○メートルの景色」
などの面白さの基準となるような機能のアピールは全く無い。

「現実に参照できる点がどこもないが、とにかく面白い」

そんな場所である。

つまり、何が楽しいかが問題ではなく、
誰がやれば楽しいかというのが重要視される場所なのだと思う。

僕もあの国の全てが素敵なんだと思った。
素敵な体験だった。楽しかった。
なんてったって、全てが素敵なんだから。







(…保守的な大企業ってあんな感じなのかな。あ、日本もか)
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