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中くらいの気遣いは省く

僕は自分なりに人を気遣います。

ただし、「中くらいの気遣い」はあまりしません。


僕にとっての「中くらいの気遣い」というのは、
「対象の困難や苦労が分かり易く、
ある程度の労力をかければだれでも解決できそうなこと」
です。

片づけ、手伝い、書記、設営、などは
基本的に手をつけません。

だいたい誰かが気付くので、
その誰かに任せることにしています。


僕はそれ以外の
ごく些細な気遣い
や、あるいは、
広い意味で捉えたときの気遣い
をするようにしています。


他の人の小さな仕草から対象の不満をくみ取ったり、
他愛もない声かけで、進まなくなった会議の雰囲気を変えてみたり、
エレベーターに乗る時に、ボタンのある場所を確保したり、
やることに特に労力のかからない、
些細な気遣いや小さな工夫はできるだけするようにします。
時間的にも労力的にも効果的にもローリスクだし。


また、広い気遣いというのは、
相手の見えていない部分を示したり、
相手の求めてそうな答えの方向に導いたりする心遣いです。
自分が見えていない部分が実は大きな喜びにつながったり、
中長期的に見たときの幸せにつながったりするものです。

そういうことは当事者は気づきにくいし、
納得してもらうのにも時間や労力がかかります。

しかも、そういうことを言うと、
その場にいる人たちの反感を買うことは少なくない。
今までの経験がふいにされることも良くあることだし。

でも、僕はそれが自分のできる気遣いだと思って示す。


例えば、
ベテランが一度経験した仕事をすればパフォーマンスは高い。
でも、それは一時しのぎにしか過ぎず、後発に任せないと
組織の長期的な繁栄は阻害されかねない。
だから、僕は、後輩にさせた方がいいと提案する。

塾講師は成長のために基本的には授業を上手くしようと努力する。
ただし、それは手段であって、決して目的ではない。

「上手いと言われる授業」をするよりも、「成績を上げること」が目的のはず。

そのためには、授業(プレゼン)と言うひとつの手段でしかないことに
こだわっていては結局、自分の思い込みで選択肢を絞ってしまっていると考えられる。

「指導」=「授業」ではない。

「指導」=「授業」+「面談」+「情報交換」+「学習習慣の管理」+…
というものだと僕は思うし、それに気付いてもらおうと努力する。



僕が些細な気遣いと広い気遣いをする理由は、
きっと僕がそれをしてもらった時に感動するから。

「中くらいの気遣い」をしてくれると、かなり助かるけれど、
見る機会が多いから、どうしても慣れてしまう。

「そんなとこに気付いてくれたんだ」
と感じると、とっても感動するし、
「そんな考え方もあるんだね」
と思わせる発言を聞くと、すごくうれしい。

中くらいの気遣いは、
短期的な快楽や余計なお世話に終わってしまうことも多くて、
僕の貧弱な頭では判断が難しいので、
あまりしないようにしている。

散らかった部屋を片付けたら怒る人とか結構いるんでしょ?
僕はだから、あまりそういう気遣いはしないようにしている。

見えるところにはその人のこだわりがあることも多いし。


でも、学部のゼミにはこの
「中くらいの気遣い」がすごいできる人がいた。
分かり易い親切を、人よりも数秒早く気付いて、人の数十倍沢山する。

ここまで行けば、「中くらいの気遣い」と言うのが不適切だと
思ってしまうぐらい、気遣いのできる人がいた。
もう「誰にもできること」では無くなっているレベルだと感じた。

僕は、自分なりの気遣いをしたいと思うけど、
こういう人がいるからこそ、自分がうまくやっていけるんだろうなと思った。


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