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秋が来た口にしたとき暑さ来たる

学んで納得したつもりのことでも実際に口にしてみると、
自分の環境との違和感を感じてしまうことがあります。

そこで、がんばって、現状と、あるいは相手との
整合性を保とうと自分の言っていることの帳尻を合わせようとする。

本の論者と私は、身分も状況も価値観も違うから全く同じ意見になることはありえない。
もちろん、論者の言説の説明をするときには、
論者の価値観や前提をなぞりながら説明するが、
読んでいるときにすんなり、あるいは衝撃的に納得させられたようなことが、
実際に、「自分の現実」の中で話してみると、何かが違う。

あの説得力がここでは(あるいは自分では)通用しない。

発信することでそれを学ぶことがよくある。

学びは意外な瞬間に感じるし、意外なことに対して得られるものだと思う。
それこそが学びなのだろう。

「予想通りに学ぶ」ということは知識に対してのみ適用されるものであり、
その他のもので「予想通りに学ぶ」ことができるなら、
それは学んでいるのではなく、「もとから知っていた」のだと僕は思う。

今の自分のものさしで測れるような学びを獲得することは
それはそれほど大きな学びではないのだろう。

やってみないと分からないこと。
それが自分にとって大事な学びであるような気がする。
なのに、しばらく僕は「今の自分に分かる効果」を期待して学ぼうとしていた気がする。
分からないから学ぶのに。

「役に立ちそうだ」と今思えることであれば、
それはきっと、自分の想像できる範囲で役に立つものでしかない気がする。
つまり「伊藤家の食卓」レベルの役立ち度ぐらいだ。

歳を重ね、少しばかり悪知恵がついて、
「何のために学ぶのか」
「その勉強はどんな役に立つのか」
なんて気取ったことを考えるようになっていた。

算数を学んでいるときは「なぜ学んでいるか」なんて考えなかった。
今になって振り返って理由づけはしたことはあるが、
きっとあの時はそんなこと考えていない。

小学生に対して、「なんで学んでいるの?」と言われたとしたら、
結果論的に「将来役に立つからだよ」とか
「普段の生活に必要だからだよ」とか言えるけれど、
それはただの言葉でしかなくて、
僕が算数から学んだことはもっと豊かなものだと思う。

そしてそれは学んでみないと分からない。
実感として認識できないことも多いと思う。

例えば、
今、算数から始まり、数学を通過して、それと理科で学んだこと、
ニュース、社会、各言語の学習など、様々なことを通して、
「テレビジョン」と言うものの裏に理数の存在や
歴史や理数への畏敬の念を感じることができる。

これは算数を学んでいなかったら分からないことだし、
こんな風に言葉で書いても他人には実感として分からないことである。

「分からないところを分からないまま進んできたから」
分かった豊かな感覚。

それを長い間忘れていたのかもしれない。危なかった。

しかし困ったことは、大学生には学ぶ機会がかなり開けているということ。
何を学ぶかを選ぶ基準を(今の僕のものさしで測れる程度しか)持ち合わせていない。
どれを選べば自分にとって良いのかが分からないのだ。

またそれ以前に、僕には一つのことに人生を費やすほどの勇気がない。
どうしてもリスクヘッジをしたいという気持ちを捨てることができない。

なんのリスクかというと「学ぶものが役に立つかどうかのリスク」である。
この考え方自体が今までの話と矛盾しているのだが、
長い間お世話になったトレードオフの考え方は
すぐに拭いされるものではない気がするのだ。

だから、まずは、
「走る時は目的が見えなくても走る」ということを心がけようと思う。

走った先は走ってみないと分からない。
写真で分かることはすごく限られたことしかない、
ということをかろうじて知っていて良かったと思う。




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