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ふゆが来た同じ冬でも違うフユ

昨日は某シナジーマーケティングのセミナーに行ってきた。

夏のインターンの経験から、ある程度の知識を持っていたので、
全体的には知っていることを再び聞くことになった。

ただ、時折、具体例を出してくれるので、それは非常に参考になった。
(VIERAやダッフィーの事例)

同じことを2回聞くor見るときって、
「俺はそれ知ってるしー」と思って時間を無駄にしてしまうのはとても簡単だと思う。

さらっと聞いているだけでも満足感は高くなるだろうし、
少しぐらいは知識の定着の助けになるかもしれない。

でも、なんだかそれって勿体ない気がするんですよね。
「せっかくやるなら」という意識を大事にしている自分にとっては。

僕は既知のものを聞くときor読むときには、そこから思いを馳せて
何かと結びつけたり、新たな方向性を考えようとしたりしないと勿体ないと思う。

そこで、昨日は(昨日も?)講義から得られる内容とは別に、
自分の考えを走らせるためのメモを取っていた。

思いついたことについて語ってみたいと思う。

トピックとしては
・何を読むか、より、何を得られるか
・本を買ったことの意義
・「ダメでも学べる」は話し手の意識としてダメ
・具体化できるかどうかが問題
・繰り返す時、繰り返してはいけない
・日本は「うまく学ぶ力」を持たないと
・流行は現時点から生まれないのでは?
・人はどんどん要素を増やそうとする


さぁ、つらつら語ろう。

・何を読むか、より、何を得られるか

最近、
「自分はなんで本を読んでもあの子より賢くなれないんだろう」
とか思うことがあった。

それは、きっと、何を読むか、よりも、
何を得られるか、が大事だからなのだと思う。

たぶん、1冊の絵本を読むだけで、
秀逸な小説を書くためのヒントを得る人はいる。

財務諸表の入門書を読むだけで、
簿記1級を取れるようになる人もいるのだろう。

あの人は週に15冊も本を読むらしい。

でも、明らかに賢い人間ではない。

そんなことを思ったりもする。

そういう人(自分も含めて)にとっての賢くなる道は
僕は「書評」にあると思う。

あの人と同じ本を読んで、自分は何を思うのか、
そして彼との違いは何なのかを知ることが大事なのではないだろうか。

本をたくさん読んでいるのなら
まずは「まねぶ」ことが大事、という言葉を見たことがあると思う。

なら、読みとり方からまねぶことが大事なのではないのだろうか。


・本を買ったことの意義

僕は思いつきですぐに本を買ってしまう。

おとといは所持金4千円で2千5百円の本を2冊買うために、
1万円を下ろしてきて、気付いたら9千円分、本を買っていた(笑)

そんなことをしているもんだから、部屋に積ん読がかなりある。
(たぶん今は200冊ぐらいか)

ちょっと前までは「読まないといけない」というプレッシャーを
わずかながら感じていたのだけれど、今は全く感じない。
つまり、「読まなくてもいいや」と思っている。

僕は本を読むと価値観が変わる。

だから、気になる本を5冊買ったとして、
1冊読んだ時点で、残り4冊への興味を無くすことはありうる。

自分が成長した後に、
成長する前に必要だった本を読むことに意義をあまり感じないのと同じだ。

その時点で、読まなくなった本は不要になるわけではない。

その本の存在が「自分の興味の変遷」を示している。
また、少なくとも、今に至る歩みで心に触れた本であるから、
しばらくしたらもう一度、手に取りたいと思うことがあるかもしれない。

その時に読めばいい、と思う。

本は買って、部屋に置いておくことにも意義があると思うのだ。


・「ダメでも学べる」は話し手の意識としてダメ

「違うと分かること」も学びだ、とよく聞く。

確かに、学びであるかもしれないが、僕はあまり好きな学びではない。

同様に、「失敗から学ぶことは重要」というのもあまり好きではない。

これらは僕は「消去法の学び」だと思う。

確かに、学ぶことがあるのかもしれないけれど、
「世の中の膨大な選択肢のうちのわずかを取り除く」だけの学びだと思う。

上記のような学びを主張している人が、
どういう意図で言っているのかは分からないけれど、
僕は「失敗したとき、違うと思った時にもそこからできるだけ学ぶこと」が大事だと思う。

できるだけ成功したいし、自分にマッチしたことに出会いたい。

でも、仕方なく好ましくない状況に出会ったときには
そこからも学ぼうとする姿勢を持っていることが重要だと思うのです。

だから、話し手が偉そうに「自分に合わなくてもそれも学びだ」
と言ってしまうのはよくない。(今回のセミナーで言ってたわけではないですよ)

あくまで、それは受け手の持つ意識であって、
話し手がそういう意識を持って話してしまうのはいけないと思う。


・具体化できるかどうかが問題

抽象的な言葉はなんだかかっこいい。
そして、いろんな事に通用する言葉である。

だからか分からないけど、就職活動でもよく聞く。
そして、「具体的に言わないといけない」という
企業側からのアドバイスも同じぐらいよく聞く。

しかし、僕は抽象的な言葉も大事だと思う。
それがビジネスの世界だとしても。

だって、企業理念を見ると、
そこには抽象的な言葉が並んでいるではないか。
どの「経営者の言葉」も抽象的な内容だと思う。

でも、それは肯定される。

これらの違いは、「具体化できるかどうか」だと思う。

経営者の抽象的な言葉に対して、
「それってどういうことですか」と聞くと、
おそらく、膨大な量の具体例が返ってくるのだと思う。

抽象と具体が結びついているのだ。
だから意味がある。

一方、グループワークを見ていると、
「抽象的な言葉から始まって、抽象的に終わる」議論をしている人がたまにいる。

そういう人の言葉は、具体例に落ちないのだ。
だから、意味がない。

なんだか、矛盾を孕んでいるような表現だが、
「地に足がついている抽象的な言葉」だからこそ意義を持つのだと思う。


・繰り返す時、繰り返してはいけない

これは冒頭に言ったこと。

同じことを繰り返す時に、同じように繰り返してはいけない。
新たなことを学ぶつもりでないなら意味がない、ということ。



・日本は「うまく学ぶ力」を持たないと

日本は先進国ではなくなりつつあると思う。

世界を引っ張っていくような力を失っていることを認め、
自分の弱いところはもっと「うまく学ぶ」力が必要だと思う。

あえて「うまく」というのを付け加えた理由はある。

現在、「他国の真似をしよう」という動きは色んな所で見られる気がする。
少子化問題であったり、移民問題であったり。

でも、それだけではいけなくて、自国らしくアレンジしないといけない。

型を学んでから型を破る、というのを最後までしないといけないと思う。

「技術のガラパゴス化」という状態になるということは、
オリジナリティを乗せていく力はあるのだと思う。

その、「真似をすること」と「オリジナリティを乗せる」ということが、
なかなかリンクできていないこと、あるいはしようとしていないことが問題だと感じる。



・流行は現時点から生まれないのでは?

流行を生もうと考える時に、流行を追っているだけでは駄目だと思う。
そこには「もう生まれてしまった流行」しかないのだから。

もし、流行を生むのであれば、現時点の流行以外を見ることも大事だと思う。

新しいものであろうが、言語や文化に大規模な革命でも起こらない限り、
過去のものや、現在の本流ではないものとの組み合わせが可能で、
それが新たな潮流を生み出すことは十分考えられる。



・人はどんどん要素を増やそうとする

グループワークで、話している時に、
ワークのメンバーがどんどん要素を増やしていこうとする。

彼らが話を聞くときは、
「要素が多くてわからない」というはずなのに、
自分たちが話を作るときには、
「要素が多くてわからない」という状態を作ろうとする。

結局、その場ではストーリーの本筋をはっきりさせることを重視したので、
無駄に要素が増えていってしまう流れを断ち切ることに成功したのだけれど、
こういった傾向が存在することを意識することは重要なのではないだろうか。

ユーザーに物事を伝えるときには簡素に。
しかし、ユーザーが参加するときには多様な選択肢が与えられるように。

ってか、この日記は全然簡素ではないけど。

そんなことを思いながらグループワークをしていた。
(まぁ、ほぼ一人で進めたんだけど)





いやー、思いを馳せていくのは面白いなぁ。



午後はずっとこの曲を聴いていた。
午前はずっと「秋桜」を聴いていた。
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