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あるカフェで、夕方ごろに。

目の前に男女2人組がいて、
女が豚のように食べ物をほおばりながら、
男は何かを見つめながら話の種を探している。

女が短い後ろ脚を組み直したときに、
カウンター近くのテーブルにいた3人が帰り支度を始める。

一人が会計を済ませる間に、
あとの2人がこの後の計画を話しながら荷物を片づけ始め、
隣で静かにしていた犬を抱えて店を出ていった。

店はクリスマスに備えて少しずつ飾りを増やしていく途中のようで、
僕との対角線の、まだ飾りが全くないエアコンの真下には、
僕と同じように本を読んでいる女性がいる。

それにしても目の前の女性の方は
話のくだらなさを、下品な話題と人への批判で
埋め合わせようとする癖があるようだ。

そこにいらつく僕の隣の席に、
マルチーズをつれた老夫婦がやってきて、
コーヒーとケーキを注文した。

隣に犬が来たことで、一気に店全体の印象が変わった気がするところに、
僕のいい加減さを感じてしまう。
今のところ、犬は存在レベルで僕に優しい。豚よりもかわいい。

醜いと思ってしまうことと、美しいと思ってしまうことが、
うまい具合というわけでもなく、ごくごく現実的な程度でバランスを取っている。

目の前の男がパソコンを開き始めた。
豚はスマートフォンに鼻息を吹きかけている。

おそらく目の前の2人組は想定内の範囲で品が悪いし、
マルチーズは想定の範囲内で自由に振る舞う。
僕は僕の予想を超えることをすることも考えることもできない。

向こうに、茶色のプードルを連れた女性が一人入ってきた。
僕と老夫婦に注文を聞きに来ていた男性店員ではなく、
奥にずっといた女性店員が注文を取りに出てきた。

彼女をうらやみたくなるほどの雰囲気はない。

右を向くとマルチーズと目が合い、
遅れて、そのことに気を使うご主人の目が続く。

いま、犬を中心に、無関係の壁が崩れかかっている。

なにが起こるか分からないことに干渉できることは、
場という面でも、タイミングという面でも、それほどありふれてはいないように思う。

ほとんどのことは想定内で、
勘違いではあるのだが、僕らは地震でさえ想定に入れようとしている。

僕は世界を少し変えてしまう覚悟をして、マルチーズに触れることにした。

予想がつかず、変わりうることをするときは、
それで変わらないことに対する覚悟も必要である。

変わるのか、変わらないのか分からない中、期待とともに、手を伸ばそうと思う。

そう思って、タイピングをやめた時、
老夫婦は席を立って僕の右手をすり抜けていった。

そして不機嫌そうな豚が、一匹で帰った。
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さて、こんなFacebookでどう振る舞おうか

昨日のFacebookに関する話から、
次は、そこでビジネスをするにあたって、どのように振る舞えば良いのかを考えたい。

これは「スタンス」の話ではあるが、
昨日の話(リンク先は冒頭と同じ)を踏まえての話なので、
ただスタンスだけを述べるのとは違う語り方になってくると思う。

ビジネスなのだから、
まず、ビジネスである限り、
その目的は「Facebookで話題になること」ではないが、
一方でFacebookで直接取引を成約できるかというと、それにも適していないとも思う。
(集団でお喋りをしているところに露骨に営業をかけるというのは賢い策とは言えないだろう)

とはいえ、「Facebook内で話題になること」を避けては通ることはできない。
話題にならなければ、何もないことと同じである。

そこで、「何のために」、「どのように話題になる」のかという2点を考える必要がある。

では、何のために
結論をいうと、Facebook施策の役割としては、
「幅広いユーザーにとって嬉しい情報を拡散すること」
「ユーザーからのイメージを企業にとって好ましいものに変えていくこと」の2点に尽きると思う。

クーポンやセールなどを頻繁にやっていく比較的カジュアルなビジネスであれば、
前者の施策の効果が顕在化しやすいだろう。

ただし、コアなファンは公式サイトや公式ブログなどの情報をチェックしているだろうから、
Facebookではより幅広いユーザーに喜ばれるキャンペーン情報などを提供するのに適していると言えるだろう。

値引きをよくするわけではなく、あまりカジュアルでないビジネスに関して、
例えば購入頻度が低く、値引きも効かないSUUMOのようなビジネスでは、
Facebook施策はイメージを良くしたり接触頻度を増やすことで他施策の効果を高める役割を担っている。

suumo好意度・利用意向グラフ
出典:「Facebookはファンを増やすだけでは意味がない!リクルートSUUMOから学ぶファン獲得・運用・効果測定方針」

つまり、Facebookからの購入は増えなくとも、
想起率上昇(思い出しやすくなる)による検索時のクリック率増大や、
Eメールの開封率上昇、店頭での入店率増大などの間接的な寄与を期待している。

Facebookだけでは不十分
そう考えると、Facebookでこのような形で施策をする場合、
ユーザーの購入タイミングに、適切な経路にきちんと販売網を敷いておく必要がある。
(確か、このような考え方を「インバウンド・マーケティング」と呼ぶらしい。たぶん)

検索して購入する人にはSEO、店頭で購入する人用にPOP、
Eメールの題名にブランド名を入れておき、Amazonにも商品を擱いておくなど、
買いたくなった時に買えると気付いてもらえるように準備しておくということが大事ということだ。

ユーザーがすごい買いたいと思っていても時に、
検索して上位に出てこなければ少し怪しく思うかもしれないし、
検索が不便なFacebookからわざわざ公式HPを探してくれるとは限らない。

そんな状態だと、Facebookでいくら良いイメージを醸成しても、成約に至らないということだ。

まとめると、営業トークがしにくいFacebookだけではなかなかビジネスが成立しないため、
成約の部分は他のプロモーション施策などに任せて、
Facebookにはお得情報拡散と、ユーザーとの関係を良くしていくことに注力することになる。


Facebookが話題に出ると、"Engagement"という分かりにくい言葉がよくあらわれるが、
つまりは上記のようにユーザーとの関係の醸成を醸成して企業のファンになってもらうことが大事
だと理解すればいいんじゃないだろうか。恐らく。

どのように話題になるのか
先に述べた「目的」の前者は、「ユーザーにとって嬉しい情報を伝えること」になる。
こちらは分かりやすい。広いユーザーに本当に喜ばれる情報を回せば、それは自然に広まる

一方、後者のイメージ向上に関しては、少し長いが、
「企業や製品/サービスに関しての、引用したくなるほど素晴らしい独自の特徴をうまく紹介する」
という手段をとることになると思う。

そしてここが非常に難しくて、
関係や印象が良くなるような情報を流すことで、
・企業の自己紹介で終わってしまってはいけないし、
・人々が広めたくなってくれないと始まらないし、
・強引に拡げてもらおうとするとその姿が晒されてことになるし、
色々なことに怖れて何もしないと、それはそれで印象が落ちる


Facebookの人は様々な人間関係にさらされているため、
自分の印象を下げるような行為はできるだけ避けたいはずなのだ。

昨日も述べた通り、ユーザーは、
自分の欲求通りの言動をするのではなく
人に良く見てもらうための言動をとりがちになる。

例えば、
芸術的なイラストの紹介だとか、
リア充実状態の写真だとか、
生活の役に立つ裏ワザだとか、
毎日を楽しくする占いだとか、
自分の関わっているボランティア活動とか。

そういう「素晴らしいもの」に「自分が関わっていると言いたい」と思うと
情報をシェアしやすくなるのではないか。

こう考えると、企業は「ユーザーを主役に出来る素晴らしいもの」を提供すれば、
その情報がどんどん拡散していく可能性が高いと言える。

つまり、「良い話題を持ってきてくれるイイヤツ」として振る舞えばいいのではないかと思うのだ。

ただ、これではユーザーのためにしかならない
ただし、Facebookで情報を拡散する時は、
ユーザーが主役になってしまうため、ただ良い情報を与えるだけでは、
「素晴らしい印象のユーザー」が量産されるだけ
である。

それでは、広告塔になってくれたユーザーからの印象しか良くならない。
他のユーザーからの印象にも影響を与えるには、情報自体に「企業らしさ」を含まなければいけない

そのためには、企業や商品/サービスの事実や歴史などの、
「他には真似できない特徴」を情報に盛り込めばいいのではないかと考えている。

例えば、
シカクいアタマをマルくするクイズ
日本を代表するメーカー3社が共同で開発し、世界を驚かせた厚さ1mm未満のディスプレイの記事
素晴らしい景色の中で満面の笑みを浮かべるキャビンアテンダントの画像
上記のようなものは、企業の色が明確になりながらも、
多くの人に薦めたくなるようなコンテンツ
になっている。

その会社の事実や歴史などの特徴を各種コンテンツの中に盛り込むことで、
誰かにシェアされたとしても、その「会社らしさ」も一緒に伝わっていく

他にも、例えば、詳細な情報を公式サイトに載せ、
そこに飛んでもらうことで会社のブランドに触れてもらうという手段も考えられる。

Facebook上にアプリを作って、アクセス時に遊びたくなるような仕組みを作るのも良いかも知れない。

また、Facebookでは画像投稿が効果的(リンク先は英語)だとよく言われているが、
これは、ユーザーにとって理解しやすく、Facebookで目立ちやすい、という理由だけでなく、
「画像であれば企業の特徴を情報に仕込みやすい」というところも着目すべき点ではないかと思う。
Facebook Photo
出典:[Infographic] How to Get More Likes, Comments and Shares on Facebook


Facebookでの振る舞い方は・・・
かなり些細な手法レベルまで話をしてしまったが、
もう一度はじめの問いに立ち返ると、
Facebookのような場所でビジネスを展開するには、
「自分のオリジナルな情報を上手く混ぜながら、ユーザーを主役にする」というスタンスで、
情報を発信していくことが良いのではないかと思う。

この記事の途中では、「お得情報」と「関係構築」を2つに場合分けして考えていたが、
上記のスタンスは2つとも含んだスタンスだと言えないだろうか。

あくまでユーザーが主役の場所なのだから、
そこでビジネスを展開しようとすると、
自社らしさを最大限生かして、ユーザーをより輝かせるというスタンスを取ればいい
という結論は、つまらないかもしれないが、
当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
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「Facebookにいる状態」を考える。

Facebookは人にとってどういう場所か。
そんなことについて考えてみた。

経緯
今年、いわゆる総合広告代理店と分類される会社に入社し、
前職のときよりも多くのメディアに広告を出す経験をした。

新聞広告、雑誌広告、屋外広告、各所ウェブメディアへのバナー、
検索広告(PPC)、Audience targeting広告など。

広告に限らずに言えば、DM(ダイレクトメール)、
e-DM、スポンサーシップ企画の策定などにも関わった。

その経験を通じ、
「各メディアはどういうモノか、というものをもっと考え、確かめる必要があるな」
と反省とともに実感することが増えた。

新聞や、雑誌、ウェブメディアに関しては、
媒体資料や社内のメディアプランナーの話を元に、
「その媒体がどういうものか」、「どういう人たちが訪れるのか」
ということをある程度考えることができ、
「だからこういう広告/施策を行おう」という風な発想に至ることができる。

調べても見つからない
そして今回、Facebookに関する施策に関わることになり、
「Facebookというのはどういう場所なのか」ということを探ろうと考えたのだが、
それに当たるような資料がほとんど見つからない。

前職のときに趣味でソーシャルメディアやFacebook関連の書籍を読み、
今回も一気に数冊ほどFacebookに触れている書籍に目を通してみたが、
それらはFacebook単独のことを扱っていなかったり、
各種メディアに対するスタンスを語ることに終始していたり、
その他ほとんどは事例やノウハウの紹介で、
「なぜそうするのか?」という疑問に答えてくれるものはほとんどなかったように思う。

(「フェイスブックインパクト」はそこに触れていた部分があったような気がしたのだが、
当時はその重要性も感じなかったため書棚整理の際に棄ててしまった。そして昨日、再購入したorz)

最近参加したad:tech 2012というイベントでFacebookのMark D'Arcyの話を聞いたが、
そのなかにも、Facebookとはどういうものか、というよりも、
「Facebookでは、どう行動できるか」、
「Fecebookでは、どう振る舞うべきか」、
あるいは「Facebookはどういうところを目指しているか
というような話がほとんどだったように思う。
(蛇足だが、"Be authentic"云々の話は"Can be authentic"という風に捉えた方が良いと思う)

彼の話は彼の話で役に立ったが、先の僕の疑問には答えてくれなかったように思う。
(貧弱な僕のヒアリング能力では聞き取れなかっただけかもしれないけれど)

前置きが長くなったが、
現在の私の調査能力では、「Facebookとはどういうところか」という質問に対して、
うまくまとめて答えられてくれているものを見つけられなかったので、
今回、今まで得た断片的な情報から、自分でも改めて整理してみようと思い立った。

FBの4つの特徴
Facebookという場所で人がどう振る舞っているのかを考えるため、
以下の4つがFacebookでの人々の言動を形作る大きな特徴ではないかと考えた。

・すでに人々が自分のグループ内で交流している
・実名で参加している
・色々なものに自分の色をつけて取り込める
・手軽に褒められる


他のメディアに触れてみた後に改めて考えてみると、どれも特徴的なものだと思う。

以下では、他のウェブメディアとの比較を前提に
各特徴からどのようなことが起こるのか考えていきたい。


すでに人々が自分のグループ内で交流している
従来のウェブメディアにアクセスする際は、
コンテンツを求めてそのメディアにアクセスする。

そして、そこにある広告は、
そのメディアもしくはその記事に関連するものが中心になっているのが一目で分かる。

しかし、Facebookの場合は、
コンテンツが主役ではなく、ユーザーというかユーザーの交流が中心であり、
コンテンツはその交流の潤滑油として「ネタ」的に消費される。

まるでそれはカフェテラスでお茶をして話している場のようで、
ネタになりそうなものが参加者の目に留まれば話題に上がり、
もともと集団内で対話がなされている中なので、
話題に上がれば一瞬で集団内をかけ巡ることになる。

そこに押しつけのような広告や宣伝をしても無視をされたり、下手をすると批難されるし、
一目でおもしろいと分かるような話題が常に目の前に供給されている場なので、
おもしろくなければその情報は取り扱うことさえしてくれない。

そこへのアプローチとして、ビジネスの観点からは、
"B to C"から"B into C"へ」と言われたりもするが、
ユーザーにとっても、交流している集団に入っていかなければいけないことを考えると、
誰にとっても同じようなアプローチ姿勢、
あえて言いかえれば"P(ersons) into T(ribes)"とでもいうような姿勢が
求められるような場所だと言えるのではないかと思う。
(英語苦手だからこういう言い回し超不安…)


実名で参加している
これはTwitterとの比較でよく話題にされる点である。

もちろん、それ以前の他ウェブメディアともかなり違う部分だと言えるだろう。
そもそも他のメディアでは個人も、個人のやり取りも可視化されていることさえ珍しい。

この実名で参加しているという特徴によって、
自分の言動が「自分がどう思われるか」ということに繋がってしまうことになる

おもしろいことを言わないとスルーされるTwitterとは
また違った息苦しさを感じさせてしまうようなメディアになっている気がする。

実名で上司や先輩、あるいは取引先と繋がったり、
実名に所属先がひもづけられた状態では、
自分もしくは自分の数段を良く見せようと
「背伸び」したい(しなければいけない)と考させられてしまう("HyperMe"と呼ぶらしい)。

だから質の高いコンテンツの紹介や高尚な考え、活動の紹介が大半を占め、
(普段のオフラインの生活での話題や、メールやツイッターの話題と比べて)
一方で、上品ではないコンテンツの割合が圧倒的に少ないことも実感する。

下品なネタをPostしているひとは、
「元々そういう人だと思われている人」か、
「やんごとなき立場の人」などに限られているのではないだろうか。

実際、
Facebookで広まる話題は、本当に興味があるものとはズレてしまうことが往々にしてある
といったような調査もあるようだ。

そう考えると、「Facebookで話題になっているから、人々が興味がある」と思うのも間違いだし、
「オンライン調査やモバイルでの動向調査などで人々が興味を持っているような情報だから、Facebookでも拡散する」とも言えない。

Facebookで拡がる話題と、人々がアクセスする情報は
必ずしもぴったり一致するとは限らない
ということだ。

つまり変な言い方になるが、
「Facebookで拡がりやすい話題」が、Facebookで拡がっている。


色々なものに自分の色をつけて取り込める
先に述べたとおり、各コンテンツは主役ではなく、
ただのネタとして消費されるし、そうすることができる。

各コンテンツの意図がどんなものかはそれほど重要ではなく
そこにどう自分で意味付けをして、
紹介するか、もしくは紹介できるのか、
ということに焦点が当てられる。

色を付けてしまった後には主役はユーザーになってしまい、
たとえば「いかにアリストテレスがすごいのか」という広まり方をするよりも、
「いかにアリストテレスがすごいと私は考えているのか」という形になって話が広がっていく。

コンテンツの力を借りて、"私が主役"になれるような環境がうまく整備されているため、
誰もが主役になれるような分かりやすく、"素晴らしそうな"コンテンツが好まれてPostされる。

情報の内容が発信元の特徴や歴史等と結びついて無いようなものは(たとえば格言など)、
元情報の発信元がどこの誰であろうと、
あたかも「拡散したユーザーのことば」であるかのように広まっていく


手軽に褒められる
この項目は前の項目にも含まれる部分もあるが、
この事実が参加するモチベーションに強く影響する部分になると思ったため別項目として扱う。

これは手軽に"人を"褒められるという機能的な意味と、
それ故に手軽に"人に"褒められる(であろう)という期待心理的な意味の双方を含んでいる。

人を褒めることはクリックやタップ1つで簡単に行うことができるため、
簡単に「人をよく褒める(素晴らしい)自分」になることもでき
だからこそ「人から手軽に褒めてもらうことができる場所だ」とも期待もしてしまう
ということだ。

また、エッジランクというFacebook特有の評価計算式により
「褒めてもらうほど注目を集める」作りになっているため、
人が手軽に褒めてくれそうな情報を探そうとするし、
そういう情報を紹介するほど目立つ経験ができる。

一方で是非を簡単に判断できないようなわかりにくい情報や複雑な情報は
誰も見てくれないし、もちろん褒めてなどくれないために出回りにくい。

参加者の多くの人がビジネスに触れたことがあるためにビジネスの情報が多くなるし、
また、Web上なので特にWebに関する情報が沢山出回る。

そして、褒めやすいから自分が参加するかどうかは関係なく
素晴らしく見えるから慈善事業の情報などを紹介したくなる。

たとえデマだとしても、分かりやすい素晴らしいものであれば拡散されてしまう。
(ちなみに、リンク先の
「釣りでもいいよ 明日からは気合いれて勉強する気になったよ ありがとう」
という姿勢には僕も賛成)

それが非常におもしろくないという意見もあり、
僕もその意見には賛成だけれども、
一方でたまに良質なコンテンツに出会うこともあるため、
一度そのような形で良い体験をしてしまうと、
頭では分かっていてもなかなかそこから離れることができなくなる。


さて、ここからどうするか
僕の集められた情報と経験から、
Facebookは上記のような場所、
上記のように振る舞いがちな場所なのではないかと考えている。

全体を通して少し皮肉っぽい書き方をしてしまったが、
私も上記のような特徴に巻き込まれてしまっており
そして何よりFacebookを楽しんでいる一人であることもふまえて書いている。

さて、そもそものきっかけとして、
「Facebookにおける施策を考えるため」
「Facebookとはどういう場所か」ということを整理したのだから、
少しは「では、ビジネスをする際にはどう振る舞えばよいのか」ということについても、
上で語ったことを土台にして考えてみたい。

とはいえ、結構長くなった気がするので、続きはまた別の機会に。
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携帯を持たずに、考えられた一日。

今日は一日、携帯を持たずに過ごした。

新橋から青山、表参道、恵比寿とあてもなく自転車で移動し、最終的にはふと思いつきで新しい部屋探しをした。

道中、色々なものを見つけ、おもしろそうだと思うととそちらに向かい、興味のままに街をすり抜けていった。はじめは写真を撮ったりつぶやいたりしたがる右手を諫める必要があったが、最後には自分のためだけの時間を楽しむことができた。

携帯電話が無い時間は、「携帯を見ることを忘れるほど夢中になっている時間」とは、また違うものだった。

ここしばらくは細かく目の前の時間を切り取り、書き残し、共有することが癖のようになっていたように思う。一日を思い返して話すときには、細かくつけた目印を順々にたどるように語るようになっていた。すこし前の自分の言ったことをすべて大事にしたかったのだと思う。

細かな記録をせずに、外から突然干渉されないような、そんな一日を過ごした後に振り返ると、「細かく目の前の時間を切り取ったときの自分」とは明らかに違う振り返り方をしていることに気づく。

丁寧に、細かく、目の前にあったすべての時間を大事にする自分は、ここにはいない。

考えてみれば、一日を振り返るときに、すべての出来事を平等に一つ一つ話してしまっては楽しくはなりそうにない。それは聞く方も楽しくないし、話す方も大して楽しくはない。過去の一つ一つの行動から強制されているようで、息苦しささえ感じる。

ずいぶん前から、「細かく出来事をつぶやけるようになって、日記が書けなくなった」という声を聞くようになった。それは、「手軽につぶやけるようになったから」だと多くの人が説明しているようだが、実はそうではなくて、「おもしろく一日を語れなくなったから」のように思える。

細かく目の前の物事を書き留めない日々を過ごしてみると、「覚えておきたい」とそのとき思ったことの多くは忘れているけれど、「出会った出来事の描写ではないもの」に気づき、一日を編み直すことができる。

以前、いざ文章を書こうとすると、過去の自分が気になって手が動かなくなっていたことが嘘であるかのように、今は、楽しく、自由に、あのときの自分を加工する事ができる。

細かく切り取る自分と、それができない自分の両方を想像することができることも面白い。細かく切り取る自分には、それができない自分が感じるであろうことを想像もできないと思う。

持たない自分は持っている自分を想像できて、持っている自分が持たない自分を想像できないというのは、不思議なことだと思う。「失ってみるまで分からない」というのはこういうことの延長なのかもしれない。

目の前にある出来事を、短い文章で、すぐに、誰かに向かって、届けるとき、その言葉は短い枠に収まるように終わらせなければいけない。そのあとに何かとつながって、より面白くなったり、大きくなるかもしれない可能性を断ち切って、小さくまとめて終わらせてしまう必要がある。

一度終わらせてしまうとそれは一つの固まりになってしまって、紐解いて編み直すことは難しくなる。終わらせた形のまま並び換えるくらいしかできなくなってしまう。過去の自分が、みんなに何を言ったのかが気になってしまうのだろう。

過去の何も知らない自分に、色々なことを見てきた自分が縛られてしまっているとは、なんて面白味のない過ごし方をしてたのだろう。

些細な目の前の出来事を一生懸命飾り付けようとしていた自分を振り返っても、楽しいわけがない。寂しくて、みすぼらしく感じてしまうだけだ。

便利だと思っていたものは、自分自身をも便利なものにしていたのかもしれない。便利なものは面白くない。

こうやって、自由に書き綴っていけばいくほど、今まででは同じような形で繋ぎ留められていた一日が、そこにいた自分には思いもよらないものに作り直されていく。そこにいた自分を弄ぶこともできる。

手軽に、みんなに、届けることができる便利なモノが、いつの間にか、自分自身を、手軽に、みんなに、届けることができる程度のモノにしていた。

一日を自由に振り返ることができる自分が面白いかどうか分からない。こうやって一日に感じたことを書き綴って終わらせようとしているいまの自分に気づくと、たとえば一月ほど何も書き留めない方が、面白く自分を編み直すことができるのかもしれないと思ったりもする。

それでも、目の前の出来事や、目の前にあった出来事のみに縛られて考えなければいけないのとは、はるかに自由さが違う。今は、一日を一日という枠だけで捉えてもいない。今日以外のものも自然に貼りついて編み上げられていく。

目の前にあるものを目の前にあるようにだけ捉えてしまうのは、残酷すぎて面白くない。目の前にあるものを目の前にないものになるまで編み上げていく方が面白い。

思えば、人と話すとき、人と過ごすときも、目の前のことに囚われがちになっていたような気もする。

もっと自由でいいのに。もっと話を拡げてもいいのに。嘘になってもいいのに。

もうすぐ死んでしまう人であるかのように、今の自分をすぐに切り取ろうとしなくていい。もうすぐ死んでしまうかもしれないけれど、格好悪いのは死んでしまうことがわかった時だけでいい。

今日は、最近ずっと気になっていた、「日々面白くなくなっていく自分」から、少し抜け出せるような、そんな予感を抱いた一日だったように思う。
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高田純次の「人生の言い訳」で肩の力が抜けた

そういえば、塾のアルバイトをしていた時の、
同僚の尊敬する人は高田純次だったなぁ、
とか思いながら、初めて書籍を手に取った。

帯に書いていたが、初の「語りおろし」らしい。
これも本当かは分からないけれど。

たまたま、今日本屋に行って、
本当は適当日記を買おうと思ってたんだけど、
本屋には適当手帳とこの本が置いてあって、
タイトルに惹かれてしまい、手にとってしまった。


人生の言い訳人生の言い訳
(2010/02/26)
高田 純次

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そんで、パラパラめくって、始めのほうで、
「俺は男らしく、絶対に言い訳しない」
こんなことを言う人にかぎって、ベッドの中では、
「あれっ、おかしいな? きょうは飲みすぎたかな?」
と、こんな言い訳をしているに違いない。
という言葉を見て、
なんだか色々な肩の荷が下りた気がして、
同時に購入することを決めた。

その時思っていたたのは、
「なんて論理的なんだ」
「すごい楽になったなぁ」
「最近、自分に固執してたなぁ」
みたいなことを考えていた。

その時は、「なぜ論理的と思ったか」って話題で
久々にブログでも書きたいなぁ、なんて思っていたんだけど、
帰って読んでみたら、そんなこともうどうでも良くなった。

読後は、
「目の前のことを正直に見るんだなぁ」
「しかも、自分の尺度にこだわらないなぁ」
「スムーズに思考を進める人だなぁ」
と、高田純次の姿勢にただただ感心した。

正直に考えた結果の負の感情も含めて受け入れる。
他人に対する言い訳と自分に対する言い訳。言い訳にはこの2つがある。
(中略)
くらべると、前者が苦し紛れとはいえ、一応きっぱりとした言い訳の体を成しているのに対し、
後者はどこか決まりが悪い。
ただ、全てのことを「適当」に笑い飛ばしているわけではなくて、
他にも恥ずかしさとかを感じていることを正直に告白する。

しかし、その上で、
他人にも自分にもうまく言い訳しないと、「しこりが残る」とか、「あとを引く」、「後悔する」といったことになってしまうもんね。
(中略)
ところが、自分に対してそんな言い訳は通用しない。だって、すぐにウソだってバレちゃうもんね。
自分に対する言い訳はそこがむずかしい。なかなか自分にはウソがつけないわけだ。
しかし、高田純次は提言したい。自分にうまく言い訳しましょう、と。
1章の終わりに、そんなことを言い放ち、
2章からさまざまな言い訳について話を続ける。

「きっと幸せにするから」
という言葉から始まり、
「終電に乗り遅れちゃったね」
といった下世話なものも扱いつつ、
「まっ、いいか」
の言葉で締める。

2章を通して、
人間の適当さ、自分の弱さ、興味のなさに言及しながら、
強引ではない形で、説得力のある語りを綴っていく。

「高田純次も言ってるけど、確かに自分もそうだよなぁ」
そんな気持ちにさせられながら、言い訳について考えてしまう。

3章は「言い訳の心理学」という名前がついていて、
詐欺師の例から始まり、
言い訳をした時に生まれてしまう感情や、
相手によってつい自分に言い訳したくなる場面について語る。

そこで、
悲しい時には、なるべくそれを人に見せたくないという心理がはたらくからだと思うけど、嬉しいときはどうだろう?

もちろん嬉しいときは、悲しいときと逆で、幸せな気持ちを人に伝えたいという気持ちはあるだろう。
しかし、その反面、あんまり嬉しそうにしているとツキが落ちるというか、
嬉しさが半減するようなすることってないかな?
こんな風に、高田純次は僕の感情の言い訳さえしてくれる。
つい、言い訳に言い訳をしたくなるようなものを、気持よく解いてくれる。

そんな感情に対処するように、
4章ではバランスの取り方を語り始める。

そこでは、
飛び抜けなければいけない(と言われている)お笑いの世界で中で
ヒット芸や定番ネタも持たない彼が(結果的に)バランスを取ってきたこと、
会社員時代には自分の感情をうまくバランスさせて仕事をこなしていたこと、
劇団デビューの際の「魔が差した」こと、などを話していく。

4章の最後に、人生の転機について、横尾忠則の作品を上げながら解説する。
人生で、T字路みたいに右か左か、はっきりした選択を迫られる場面はそう多くはない。
むしろ、Y字路的な微妙な選択をすることのほうが圧倒的に多いはずだ。
(中略)
T字路の右左を間違えたら、方向が全く違うわけだから、きた道を引き返すという選択肢しかない。
ところがY字路の場合は、途中からでもどこかで適当に曲がっていけば
もう一方の未知にでられそうな気がして、思わずハンドルを切ってしまう。

すると、たいていはそれがまた間違えていて、行き止まりだったり、
まったく違うとんでもないところにでてしまったりする。

このがっかり感。そんなきたいやら、もどかしさやら曖昧さやらが詰まっているのがY字路で、とても面白いと思った。
なんて、ぐっと来る文章を書かれてしまう。
さらに、それを「面白い」と片付けるとは、なんと格好良いのか。

実は、この直後には、個人的に非常に気に入っている部分があって、
彼が絵を欲しくなって横尾さんに頼み込みに言った時の話で、
そのとき横尾さんの手を見たら、
指が白くて、僕の倍ぐらいの長さがあるのにビックリして、
さすが世界の横尾さんは指も世界的な長さ、なんて印象を持っていた。
ところが、二度目にお会いしたときは、今度は普通の指だった。
あれは幻だったんだろうか。今でも不思議だ。
と書いている。

この記述に、彼の正直さというか素直さが現れているなぁ、と感じたのだ。

記憶に、無理やり整合性を持たせようとせず、正直に捉え、正直に残す。
そんなスタンスがここに出てるんじゃないか、と思ってしまった。

そんな彼が、最後の5章でまた期待を超えてくる。

今までスムーズに文章を綴っていたのに、
いきなり、
「適当」が分からない
という見出しで話を始めてくるのだ。

そして、
いつからか僕は、「適当男」なんて言われているけれど、
これでもけっこう人並み以上に悩むことがある。
「適当って何だろう?」と。
むずかしいんだ、これが。
(中略)
その世間のイメージからすれば、高田純次は適当でなくちゃいけないんだけど、
当の本人が「適当」ってことがよくわかっていないのだから、タチが悪い。
と続ける。

「適当論」という本が売れるようになってから、
ひとから「適当」を求められるようになったと言い、
ところが、「適当男」というのは、世間の僕に対するイメージではあるんだろうけど、
僕自身が「適当男」を演じているわけでもないし、
「待ってました! 高田純次のテキトー節」みたいなお決まりの芸があるわけでもない。

にもかかわらず、いったん「適当男」という色が付いてしまうと、
みんながそういう目で僕を見るから、そこにジレンマが生じる。
という難しさを吐露する。

そんなわけで、「適当男」と言われだしてから僕は、
適当ということに振り回されてきたように思う。
(中略)
ここまではさっき言ったとおりなんだけど、実はもっと大きなジレンマがある。

それは、「高田さんのテキトーな感じがいい」と第三者に言われて、
「そうか!」とその気になった僕が、
「適当」を大いに意識してそれを演じてみせるとか、
芸にしちゃおうとかなったときに、
それはもう「適当」じゃなくなっちゃうってことだ。
(中略)
自分で言っててわけがわからなくなってきちゃったけど、
要するに、さっき言ったように、
適当ということを適当に考えてたら適当なことはできないけれど、
かといってまじめに考えてしまっても、その瞬間に適当じゃなくるってこと。

そのへんがじつにジレンマなわけ。
と全く「適当」ではない論を展開する。

このような話に加えて、
5章では役者論など、真剣に意見を続けていく。

最後はやっぱり適当な茶化しで終わるのだが、
本書では一貫して、正直で、誠実な人であることが感じ取れた。

彼は、
自分の弱いところも認めるし、
状況の変化をありのまま捉えようとするし、
その自分の感覚も絶対視しない中で、
誠実に状況を分析し、考えを進めていく。


そんな姿が、ぼくの肩の荷を下ろし、
強情な言い訳で大きく見せようとしていた自分を諦めさせ、
同時に、広い平野にぽつんと立つ小さな自分を感じさせてくれた。


「馬鹿だったなぁ。僕は弱くてだめだな。」

そんな自分への言い訳が、
引っかかること無く自分の中に落ちていった。

人生の言い訳人生の言い訳
(2010/02/26)
高田 純次

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